少し前の話になるが、スパ・フランコルシャン・サーキットで行なわれた2020年F1世界選手権第7戦ベルギーGPの決勝レースでは、珍しいシーンがテレビで中継された。10周目、A・ジョビナッツィ(アルファロメオ)が単独クラッシュを起こした。ジョビナッツィのマシンから外れたタイヤを避けきれず、G・ラッセル(ウイリアムズ)もクラッシュ。2台のマシンとコース上に散らばった破片を除去するため、セーフティカーが導入された。
このタイミングを利用してフェラーリのC・ルクレールは他の多くのマシンと一緒にピットに向かった。珍しいシーンが見られたのはピットストップ時である。タイヤを交換するのが通常の手順だが、マシンの左側にいるメカニックが腰を下ろし、細いホースの先を左サイドポンツーンの下部に差し込んでいた。
普段は行なわない追加の作業によって通常のピットストップより時間を費やしたため、ルクレールはピットストップ前に後ろを走っていたK・ライコネン(アルファロメオ)に先行を許すことになった。また、本来ならルクレールと同じ周にチームメイトのS・ベッテルもピットに呼び戻す予定だったが、ルクレールのピットストップに時間がかかることがわかっていたため、1周遅らせる判断をせざるを得なかった。
ルクレールに行なった追加の作業は、ニューマチックバルブ用のエアの充填だった。レース後にフェラーリが発行したプレスリリースのなかで、レース戦略責任者のI・ルエダは、「空気の充填には通常3秒かかる」と説明している。この余計な3秒のためにルクレールはコース上のポジションを失い、ベッテルはピットストップのタイミングを逃したのだった。
カムの動きによって開いた吸排気バルブを元の位置に戻すのは、コイルスプリング(バルブスプリング)が一般的だ。ところがかつて、F1エンジンの高回転化が進むのにともない、金属ばねでは素早いバルブ開閉の動きに追従できなくなってきた。そこで登場したのが、金属ばねの役割を空気に置き換えたニューマチック・バルブ・リターン・システム(PVRS)である。1986年にルノーが1.5ℓ・V6ターボエンジンのEF15Bで採用したのが最初だ。ホンダは92年の3.5ℓ・V12自然吸気エンジン、RA122E/BからPVRSを採用している。
PVRSのエアは漏れる(消費する)のがデフォルトで(もちろん、最小限に食い止める努力はする)、そのためにエア補充用のタンクを備えている。フェラーリの場合は左サイドポンツーン前端下部にタンクを搭載。ベルギーGPのピットストップでエアの補充を強いられたのは、「通常より消費量が多かったから」だとルエダは説明している。レース距離を走りきれるぶんだけの量をタンクに貯蔵して走るのが通常だ。
国内でF1を放映しているフジテレビNEXTの解説で、「ヤマハのエンジンは確か……」という言及があったのでフォローしておこう。89年から97年までF1にエンジンを供給していたヤマハは、94年のOX10B(3.5ℓ・V10自然吸気)で初めてPVRSを導入した。悩みはやはり「エア消費」だったが、「消費するなら供給すればいい」という発想を持ち込み、模型用エンジンを改造したコンプレッサーを吸気側カムシャフトの後ろ側で駆動し、エアを供給するシステムを開発した。
写真は97年のOX11A(3.0ℓ・V10自然吸気)。吸気側カムシャフトの後ろ側がぽっこり膨らんでいるのが確認できる。ここに、PVRSのエアを供給するコンプレッサーが収まっている。
08年のホンダの2.4ℓ・V8自然吸気エンジン(最高回転数は規則で19000rpmに制限)、RA808EでPVRSの構造を見てみよう。DLCコーティングが施されたフィンガーフォロワーの下にあるのがPVRSのピストンだ(写真はバルブが開いている状態)。シリンダーとピストンに挟まれた空間に圧搾空気を充填。その圧力を利用して、開いたバルブを元の位置に戻す仕組みだ。