ル・マン4連覇!小林可夢偉にとってもトヨタにとっても「7号車」の勝利には格別の意味が。そもそもなぜ「7」と「8」なのか?

念願の優勝を果たした7号車。小林可夢偉/マイク・コンウェイ/ホセ・マリア・ロペスがドライブした。
8月21日(土)から22日(日)にかけて、フランス・パリの南西約200kmに位置するル・マンで89回目のル・マン24時間レースが行なわれた。総合優勝を果たしたのは、TOYOTA GAZOO Racing(TGR)の7号車(マイク・コンウェイ/小林可夢偉/ホセ・マリア・ロペス)だった。TGRは今年から導入された最上位のル・マン・ハイパーカー(LMH)カテゴリーに2台のGR010ハイブリッドを投入。もう1台の8号車(セバスチャン・ブエミ/中嶋一貴/ブレンドン・ハートレー)が2位に入り、同じカテゴリーで競う1台のアルピーヌと2台のグリッケンハウスを制して、ワン・ツー・フィニッシュで締めくくった。
TEXT◎世良耕太(SERA Kota) PHOTO:TOYOTA Gazoo Racing

TGRはこれで、2018年の初優勝以来、ル・マン24時間レース4連覇を果たしたことになる。今回の優勝により、優勝回数3回のマトラとプジョーを上回り、アルファロメオとフォードに並んだことになる。歴代6位タイの記録だ。アルファロメオはトヨタと同じように4連覇を果たしたが、それは1931年から34年にかけてのことだ。優勝回数でトヨタを上回るのは、6回のベントレー、7回のジャガー、9回のフェラーリ、13回のアウディ、19回のポルシェである。

トヨタのハイパーカーGR010 HYBRID トップの7号車は24時間で371周を走った。

2018年に初優勝を成し遂げたのは、8号車(ブエミ/中嶋/フェルナンド・アロンソ)だった。2019年の2回目の優勝も8号車(ブエミ/中嶋/アロンソ)、2020年の3回目の優勝も8号車(ブエミ/中嶋/ハートレー)が手にしている。7号車は2位、2位、3位だった。予選では、2019年と2020年に小林可夢偉のドライブでポールポジションを獲得しているが、レースでは8号車の後塵を拝する結果になっていた。

小林は自身として参戦2年目の2017年に従来のコースレコードを約2秒上回る3分14秒791の驚異的なタイムを記録し、2番手のポルシェ919ハイブリッドに約2.5秒もの差をつけてポールポジションを獲得。以来、「小林可夢偉は速い」というイメージが定着していた(ル・マンに限らないが)。いわば、現役のル・マン最速男である。しかし、レースでは何度も勝利に近づきながら、勝てずにいた。

そしてようやく、小林はル・マン24時間レースで勝利を収めた。小林はレース後、次のようにコメントしている。

小林可夢偉(中央)にとっては、宿願のル・マン制覇となった。

「ル・マンの勝者としてここにいるというのは、最高の気分です。ここに到るまでに、何年も何年も、さまざまな経験を経てきましたし、そのなかには本当に辛いものもありました。ル・マンに勝つためには運が必要だと常々感じていましたが、今日も運が必要でした。最後は走り続けるために、特別な操作をしなくてはなりませんでした。終盤の7時間は、生き残るために死力を尽くして戦う必要があり、とても難しい作業でした。通常であればそこでレースは終わりでしたが、チームが本当によくやってくれて、正しい判断で導いてくれたおかげで、なんとか最後まで走り切ることができました」

先に燃料供給系のトラブルが発生したのは、8号車だった。
同じトラブルは7号車にも襲いかかった。

7号車も8号車も、燃料供給系のトラブルに見舞われていたのだった。確実な方法で解決を試みようとすると作業に時間がかかるため、勝利は諦めるしかなくなる。チームは知恵を絞り、ドライバーの力を借りて、走りながら、ロスを最小限に食い止める解決策を施した。残り5分で発生したトラブルにより初めての勝利を逃した2016年以来、チームが一丸となって取り組んできた“カイゼン”の賜物である。

小林可夢偉を含む7号車のドライバーにとっても悲願の初優勝だったが、トヨタの「7号車」にとっても今回の優勝は悲願だった。トヨタは2012年にル・マン24時間レースに復帰して以来、カーナンバー7と8を付け続けている。7と8に決めたのは、2012年当時、ル・マン24時間を含むFIA世界耐久選手権(WEC)に参戦するプロジェクトを率いていたトヨタ・レーシング(現TGR WEC) チーム代表の木下美明氏だ。

1992年のル・マン24時間に参戦したトヨタTS010。7号車は、片山右京/ジェフ・リース/デビッド・ブラバム組で192周でリタイアしている。

「(2012年に参戦するにあたり、ル・マン24時間レースを主催する)ACOからカーナンバーは何番がいい? と聞かれたので、7と8でお願いしますと言いました。自分が7号車を担当していましたから」

1992年のル・マン24時間レースに、トヨタはRV10型3.5ℓV10自然吸気エンジンを積んだTS010の7号車と8号車、それに33号車を持ち込んだ。当時、エースカーの7号車を担当していたのが木下氏だった。7号車はクラッシュによるダメージを修復しながら走り続けたが、最後はエンジンのトラブルでリタイアした。8号車は完走したものの、トップから21周遅れの8位だった。

トロフィーを掲げているのが現TGR WECチーム代表の村田久武氏だ。

そのときの雪辱を果たすための7と8の選択だった。カーナンバー8の雪辱は2018年に果たし、カーナンバー7の雪辱は、2012年のル・マン復帰以来、10回目の挑戦でようやく果たしたことになる。ちなみに、1992年のル・マン24時間で“3台目”の扱いだった33号車をサポートメンバーとして担当していたのが、表彰台でドライバーたちと4回目の総合優勝の喜びを分かち合った現TGR WECチーム代表の村田久武氏である。33号車はこのとき2位に入り、トヨタが1985年にル・マンへの挑戦を始めて以来、初めて表彰台に上がった。

TGRチームオーナーの豊田章男氏によれば、小林、コンウェイ、ロペスはようやく「忘れ物」を取り戻したことになる。忘れ物を取り戻したのは、トヨタの7号車にとっても同じだ。取り戻すのに29年かかったが。

最後のスティントは、7号車は小林可夢偉がドライブした。レース最後の数周は2台によるランデブー走行となった。

キーワードで検索する

著者プロフィール

世良耕太 近影

世良耕太

1967年東京生まれ。早稲田大学卒業後、出版社に勤務。編集者・ライターとして自動車、技術、F1をはじめと…