「クルマ対バイクのガチンコ対決ステージ」 全盛期の“第三京浜”を走り抜けた男達

総延長16.6kmのステージを4分足らずで走り抜ける!

かつての東名レースや湾岸最高速と並んで、関東における走りのステージとして数えられる“第三京浜”。80年代半ばに始まる盛り上がりは、BNR32の登場でピークを迎えた。(OPTION誌2007年8月号より)

最高速ランナーが語る全盛期の第三京浜

名前や職業などは一切明かせない上、当然撮影もNG。それでも良ければ…と取材に応じてくれた某氏は東名レース、湾岸最高速、第三京浜と、常に最前線を走り続けてきた一人。以下、インタビューの内容だ。

「ターボ車のチューニングと共に盛り上がったステージです。」

僕が第三京浜を走り始めたのは1983年くらいから。と言うのも、1982年の一斉検挙で東名レースが事実上消滅したことと、当時は首都高湾岸線がまだ全線開通していなかったことで、多くの走り屋が第三京浜に流れたんですよ。

まぁ、東京近郊で片側3車線というと、そこしか無かったということも大きな理由の一つでしょうね。その頃はNAメカチューンやキャブ ターボ、ぼちぼち見かけるようになってきたターボ車のブーストアップ仕様が主流で、速かった連中でもアベレージは250キロくらい。だから、東名や湾岸の最高速で2番手グループを走っていた連中でも、第三京浜ではトップクラスを走れました。

それに、バリバリの最高速仕様でなくても結構良い勝負ができました。実際、本当の最高速ステージでは絶対に見かけないスタリオンやピアッツァがいましたし、南部や港北に向かうゼロヨン仕様のチューニングカーも一緒に走っていましたよ。

第三京浜には週3〜4回通ってましたね。いつも目黒通り側(環8外回り)の入口近くにクルマを停めて相手を探すんです。そこで待っていれば、環8内回りから入ってくるクルマも分かりますし、もう一つ、必ず玉川ICを瀬田方面に出てUターンして、再び第三京浜に戻っていく公機ともすれ違わずに済みますから。

保土ヶ谷IC 500m手前。緩く下りながらの左コーナー全開区間だ。

それっぽいクルマを見つけたら、すぐにスクランブル発進。新多摩川大橋は並走して多摩川S字の右コーナー、ちょうど料金所を過ぎたところがスタートでした。まずは相手の走りを細かく観察しながら保土ヶ谷ICまで走って、パーキングでオーナーと会話。お互い合意した上で、今度は保土ヶ谷から玉川まで真剣勝負…そんな感じでしたよ。

ただ、本気で走っているのは圧倒的にバイクの方が多かったですね。こっちから勝負を仕掛けることは無かったですけど、バイクはトップスピードを稼ぐためにスリップに入ってくる。それが煽られているようにしか思えなくて、バトルが始まるわけです。

ちょっと走れば、真剣に勝負を挑んでくるバイクはすぐに分かる。というのも、奴らはクルマの間を縫うことなく、こっちが通れるラインを考えながら走るんですよ。いずれにしろ、クルマ対バイクという図式は他のステージではありえなかったですね。

今思うと第三京浜は、ターボ車のチューニングとともに盛り上がっていったステージだと思います。スカイラインで言うとDR30に始まり、最後がBNR32…そうなるでしょうね。

バイク乗りから見た第三京浜の勢力図

最高速ランラー某氏にインタビューしながら思った。第三京浜を語る上でバイク乗りの意見は外せない…と。そこで我々は情報網を駆使し、探し当てたのがK氏。リッターバイクに跨がり、夜な夜なチューニングカーを追いかけ回していたという80年代末〜80年代初めの第三京浜事情を聞いてみた。

「メーター読み290キロ、4分切りで走ってたよ。」

「第三京浜は俺たちの世界」。バイク乗りなら、みんなそう思っているんじゃないかな。第三京浜に通うようになったのは1989年。その時はカワサキGPZ900Rニンジャに乗っていたよ。CRキャブやヘインズのマフラーで吸排気を軽くいじって、後はきっちり止まれるようにロッキードのブレーキキットを組んでいた。パワーは130ps、メーター読みで260キロ出るかどうかの仕様。

東京都内で歯科医を開業するK氏。チューニングカーとガチンコ勝負を繰り広げていたバイク乗りは、第三京浜でもごく一握りだ。

でも、バイク相手なら十分勝てたんだよね。パワーも重要だけど、それ以上にいかにアクセルを開け続けられるか? つまり、どれだけ根性があるかって話で、普通は30秒、長くても1分もすればアクセルを戻して、道を譲る奴がほとんどだったから。

ただ、相手がクルマになると状況が変わってくる。カウルがあっても身体に受ける風圧はハンパじゃないし、高速コーナリングでも分が悪い。多摩川S字なんかはフルバンク状態だし。だから、GT-Rやポルシェ、スープラ辺りだと厳しかったね。

港北IC(都築ICから3.0km)。手前の緩い上り区間でパワーの差が大きく出る。

結局、ニンジャでは勝負にならないと判断して、スズキGSX-R1100に乗り替えた。マフターをUSヨシムラのレース管に交換して、ダイノジェットのキャブチューニングキットを使って自分でセッティング。これで160ps近く出たね。最高速もメーター読みで290キロ。当時、カワサキZZ-R1000が世界最速と言われていたけど、誰が乗っても速いバイクには興味が無かったんだ。

GSX-Rの速さはニンジャを遥かに上回っていたよ。トップ連中の3分50秒切りまではいかなかったけど、コンスタントに4分は切っていたからね。クルマ相手でもまず無敵だった。

それでも一度だけBNR32に負けたことがある。横浜のチームの1台で、一緒に走っていたZやスープラ、NSXを追撃してBNR32と一騎討ちになったんだ。290キロ手前で何とかスリップに入って港北IC手前の上りでメーター読み300キロを確認。ここで横に並べば勝てる!と確信した瞬間、信じられないことにBNR32は、そこからさらに加速していった。

保土ヶ谷パーキングでオーナーと合流して助手席に乗せてもらったんだけど、加速Gはバイク以上。色んなクルマと張り合ってきたけど、そのBNR32だけは別格だったね。良い思い出だよ。

「首都高伝説」2001年、全盛期のC1外回りで最速と呼ばれた紅きBNR34

記事が選択されていません

「大阪環状伝説」1000台以上が集結した無法バトルステージの真実

キーワードで検索する

著者プロフィール

weboption 近影

weboption