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ビデオが元で検挙されたフェラーリ公道最高速アタック事件!
1990年。“320km 激走 Ferrari F40”というタイトルのビデオが発売された。高速道路で最高速アタックをした映像なのだが、そのビデオが証拠となって検挙されたのが、レーシングサービスデイノ代表の切替徹氏。世間的にはその数字と結果だけが大きく取り上げられ、文字通り大炎上したが、その真相はどのようなものだったのだろうか? 改めて、本人に話を伺った。(OPTION誌2018年11月号より抜粋)
「私以外の人に検挙者が出なくて良かったです。ただそれだけです」
70年代初頭。ディーノ246GTと共にカーライフを満喫していた若き切替氏だったが、愛車に予期せぬトラブルが発生。修理をしようにも、当時国内にはフェラーリ社の代理店など存在せず部品調達すら困難だった。そこで、自らイタリアへと渡航することに。
現地のフェラーリを扱っているショップオーナーは、切替氏の熱い想いに応えるように、メカニカルなことからキャブレターのセッティングまで懇切丁寧に教えてくれた。そして切替氏は「いつかはこのお店で新車のフェラーリを買いたい」という思いを募らせた。
1973年。レーシングサービスデイノの前身となる“カーショップデイノ”をオープン。フェラーリの修理やメンテナンスに明け暮れ、新車のフェラーリを買うための資金をコツコツと貯める日々が続いたのだ。
そして時は流れ80年代後半。ついに、かつてお世話になったフェラーリショップでF40を購入し、長年の夢を実現させた。
そんな切替氏の存在を知ったビデオ制作会社から「『320km 激走 Ferrari F40』というセルビデオを作りませんか」という話が舞い込む。「イタリアでお世話になったショップオーナーにビデオを観てもらって、日本での頑張りが伝われば…」と考えた切替氏は、その仕事を快諾する。
走行動画の撮影は、谷田部のテストコース(JARI:日本自動車研究所)で行われることとなった。しかし、バンク走行など未経験の切替氏はアクセルを踏みきれず、メーター読みで280km/h止まり。
このままでは企画が成立しない。「レーシングドライバーを使う」という提案もあったが、人生の宝物であるF40のハンドルは誰にも触らせたくない。
歯車が狂い出す。話はおかしな方向へと進み、最終的に『谷田部の走行シーンに、高速道路で300km/hを出したメーターの映像のみを重ねる』という“禁じ手”で、この局面を乗り越える事で結託。
そして、切替氏は実行したのだ。
撮影が終わると、後の作業は制作会社に一任。完成動画のチェックをお願いされたものの、当時、多忙を極めていたこともあって確認はしなかった。これが、検挙の証拠となったあの有名なビデオである。
後に制作会社から伝えられたのは、谷田部と高速道路とでは速度の出方が異なりすぎて合成は不可能と判断。谷田部での走行映像はカットとなり、高速道路での走行映像のみで構成された作品が販売されてしまったというのが事の真相だった。この時点で、切替氏は腹を括ったそうだ。
そんなビデオの存在に食いついたのが、大手新聞社。記者からの問いに、自らが運転したことを認めた切替氏。翌日にはそれが事件として扱われ、新聞の一面に踊った。すると、その記事を目にした読者からの通報などで警察の動きが慌ただしくなってきた。
警察署に呼び出された切替氏。そこでの事情聴取でも「自分が運転したことに間違いありません」と、潔く容疑を認めた。物証のビデオは警察によって検証、区間速度から317km/h(法定速度の217km/hオーバー)という速度が導き出されたそうだ。
イタリアのショップオーナーへの想いや、苦労を重ねて新車購入したフェラーリに対する真摯な気持ちをウヤムヤにしたくはなかったと語る切替氏。しかし、自分の行為は“世間から見れば単なる暴走行為でしかない”事も理解していた。
切替氏は一切言い訳をしなかった。本人にとっては、己の矜持を持って踏んだアクセルだったのだ。
「私以外の検挙者が出なくて良かったです。ただそれだけです」。
現在、切替氏は茨城県で“レーシングサービスデイノ”の代表を務めているが、事件以降、スピード違反で検挙されたことは一度もないという。主戦場も、もちろんクローズドサーキットのみだ。