「東名レースって何だったの!?」深夜の東名高速が無法地帯だった時代

異常なまでの盛り上がりを見せた「東名レース」の実態

全長30キロの巨大な最高速ステージ!

「東名全開族25時の狂走曲 サタディ・ナイト・ラプソディ」。なんとも、OPTION誌らしい過激なタイトルだ。この記事は、当時、社会問題になっていた「東名全開族」に迫った実録レポートである。

全盛期はギャラリーが路側帯や中央分離帯にまで溢れ、かなりデンジャラスな状態だったが、この全長30キロに及ぶ巨大なステージこそ、日本のチューニング史における最高速トライアルのスタート地点だったことは紛れもない事実なのだ。

東名全開族25時の狂走曲 サタディ・ナイト・ラプソディ

血潮たぎる魂、熱き全国の真の走り屋に訴える・・・

最高速時代のプロローグ

一体、いつ頃からだったろうか? 東名最高速ランナーの噂が一部の走り屋達の間で囁かれるようになったのは。土曜日深夜、東名上り線・海老名SAから、瀬田・東京料金所までの約30キロ区間を全開で疾駆する。関東の走り屋/チューナーにとって、それは、密かに最高速にトライできる、限られた空白帯だった。深夜のトラック便も、その時間だけは途絶えるのだ。

ところが…、最近「見物が多すぎて走れねー」「もう東名は終わったよ。本当に走れなくなっちゃったね」、そんな声があちこちから聞こえてきたのである。「ここのところ、ずっとSAでパトカーが張っている!」となれば、もう穏やかではない。東名ウイークエンドの空白ゾーンは、完全に変質してしまったようだ。

その実態を探るために、OPTION取材班は東名全開族の現場取材を敢行した。血潮たぎる“25時の狂走曲”、開演である。

この最高速ステージにおいて、「チューニングで、ナン100ps出ている」かは問題にならなかった。どんなに口でチューニングの凄さを主張しようとも、走って本当に速いか否かが全てだったからだ。要求されるのは、パワーもさることながら、確かな足回りと真の空力的リファイン。命を乗せてアクセルを踏み切れる信頼性も忘れてはならない。

主役はやはりL型とロータリー。中身までカリカリにイジり倒して、ポルシェをはじめとする輸入車チューンド勢と激しいバトルを繰り広げるのである。具体的には雨さんを頂点にしたロータリー勢、カンブ大川の駆るトランザム、IMC飯島やアウトバーン武田などのポルシェ軍団、トップスの高橋パンテーラ軍団、細木(現ABR)軍団…。濃いメンツばかりだ。

海老名SAには200台を超えるチューンドが集結していた

宴は24時を期して、幕を開けた。続々と海老名SAに走り込んでくるクルマとともに、赤色燈を点滅させた警察車両がオープニングを彩る。時計の針と共に、パーキングスペースはみるみる埋まっていく。

いずれもノーマル車ではない。SAはさながら、真夜中のストリートカーショーの会場と化した。外車勢では、チューンド・パンテーラはもとより、ドレスアップしたAMGベンツ、コルベット、ポルシェ、ロータスらも姿を見せ、国産車もZ、RX-7をはじめ、新旧スカG、セリカ、はてはマークIIなどのセダンまでが舞台に登場。パーキングスペースからみても、台数は軽く200台を超えている。

24時30分、6~7名の警察官が、記録ボードを手にエリアを歩き出す。片っ端からマシンのナンバーをチェックしていくためだ。それは非常に奇妙な光景だった。警察と参集者はお互いに強く意識しあっているにも関わらず、その存在を無視しあうのだ。異様な雰囲気の中、警察官は派手な改造車を見ても、何も言わなかった。

25時。チェックもひと段落した頃、エリアは急に慌ただしいエンジン音に包まれはじめる。定員乗車に近いギャラリーのクルマが、ひと足先に来るべきクライマックスの“観戦場所”を求めて動いたのだ。主役達が群れをなして飛び出していったのは、それから数十分後だった。

このステージの速度域は、国産車が200〜260キロ、輸入車が250〜270キロ。そして、トップ連中はスタートからゴールまでを4分弱で走破する。

WRCかよ…! OPTION取材班の一人が驚きながらそのように口走ったのは、海老名SAを出てしばらくしてからだった。見物車がバスストップ(停留所)から溢れ出し、恐るべきことに、なんと高速道路の中央分離帯にまでギャラリーが立っていたのだ。そう、いつの間にか東名レースは、命がけの最高速トライアルとは別種の全開ショーに成り下がっていたのである。

「もう終わりだよ」。トップランカーのボヤキを思い出しながら、Uターンして再びSAを目指す。

26時30分。数時間前の祭りが嘘だったかのように静まり返る海老名SA。そして、取り残された警察車両が、むなしげに、なおも赤色燈を点滅させていた…。1983年6月。

夢の終わり

コースサイドや中央分離帯は大勢のギャラリーで溢れ返っていた全盛期。この無法状態がいつまでも続くわけなどなく、80年代中盤にギャラリーを巻き込んだ大規模な死亡事故が発生し、警察の取り締まりが本格化。そのまま徐々に衰退していくのである。

OPTION誌1983年8月号

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