「日本が誇る技術屋集団“東名パワード”に迫る」メカドラと呼ばれた男達の物語

日本のレース界の黎明期に旗揚げし、当時まだ珍しかったストリートチューンも同時のタイミングで手がけ始めたという“東名パワード”。メカドラとも言われる走れるエンジニア達の、汗と努力で築かれてきたヒストリーに迫っていく。

高性能パーツを生み出す開発力と技術力は勝利の追求が原点

時を経ても受け継がれる創業者のTOMEI魂!

社名に違わず、東名高速道路、横浜町田インターチェンジから至近の位置に本社を構えている東名パワード。日々、多くの来客を迎え入れ瀟洒なエントランスを支えるように展開されているのは、数々の工作機械やエンジンベンチ、シャーシダイナモなどのテスト機器など。常により質の高い製品を追求し続ける技術者集団である東名パワードを、そのまま体現しているような社屋である。

そんな同社の歴史は、東名自動車として創業した1968年にまで遡る。当時の日本はGNPがアメリカに次ぐ世界第二位となるなど、高度成長期の真っ只中。子供たちはテレビアニメの巨人の星に釘付けとなり、水前寺清子の三百六十五歩のマーチが大ヒットしていた時代だ。

自動車環境はというと、日産サニーとトヨタカローラの登場により、乗用車が一気に一般へと普及。モータースポーツのステージも1962年の鈴鹿サーキットに続き、1966年に富士スピードウェイがオープン、日本で本格的なレースシーンが広がり始めていた時期でもある。

東名自動車の立ち上げを遂行した鈴木誠一氏。バイクレーサー時代の走りとチューニング技術が日産に認められ4輪に転向。ストックカーを始めとした数々のレースで勝利を収めていったが、1974年の富士GCで多重クラッシュに巻き込まれ、37歳の若さで他界。日産ワークスのリーダーのひとりとして、多くの後輩たちを育てていったことでも知られるなど、レース史に名を残す伝説のドライバーだ。

そんな日本の自動車レース黎明期に、“メカドラの神様”と称されていたのが、東名自動車の始祖「故・鈴木誠一氏」。日産ワークスドライバーとしてツーリングカーやストックカーレースで大活躍しながら、東名自動車の創業後、1974年に富士GCレースでの不幸な事故により亡くなっている。

鈴木修二氏:幼少期は兄である誠一氏と城北ライダース(久保兄弟)などとも関わったが、ドライバーとして圧倒的な才能の差を感じ、パーツ販売を仕事とするようになった。その後、東名自動車の創業の際に兄に呼ばれ事務方一切と経営を指揮する社長業務を担当し、現在へと続いてきた。

今回は、氏の思い出とともに、創業者のひとりであり誠一氏の実弟でもある鈴木修二顧問に、東名パワード(創業時は東名自動車)の53年を振り返っていただいた。

「東名パワードの53年」鈴木修二氏

「東名自動車創業の中心的な存在でもある兄の誠一は、東京都板橋区で5人兄弟の長男として生まれました。とにかく機械いじりが好きで、モーターボート(模型)やUコン飛行機を独学で改造して大会などに参加していた他、実家の一室を鉄道模型のレールで埋め尽くしていたのもよく覚えています。

また、小学生の頃から近所の仲間だったバイク屋の久保兄弟とともにバイクに乗りはじめ、中学生になると本格的にスクーターを改造して河原などを走り回っていましたね。この時の仲間たちを中心に、その後結成されたのが“城北ライダース”というクラブチームでした。

メンバーはそれぞれがドライバー兼メカニックで、自らチューニングを施したバイクでモトクロスレースに出場するようになったのです。誠一は当初ヤマハの125cc市販車を改造したマシンでしたが、その活躍が目に留まり、城北ライダースはスズキワークスチームとして契約。常勝チームとなった城北ライダースのキャプテンとして、1962年にはロードレースの世界選手権にも参戦しました」

神奈川県川崎市で創業した当時と思われる写真。日産A12エンジンを搭載するFJ1300の後方に並ぶのは城北ライダース時代から苦楽を共にしてきたスタッフ達。一番左が鈴木誠一氏。

日本のモータースポーツの礎を築いた存在として知られる城北ライダース。その出身者は鈴木誠一の他にも、都平健二、長谷見昌弘、土屋春雄など蒼々たる顔ぶれ。彼らが2輪から4輪へと戦いの場を変えることになったのはどういう経緯だっただろうか?

「バイクレースでの7、8年を経て、クルマでのレースデビューは1964年でした。日本でも本格的な自動車レースがスタートするのに向けて日産自動車からのスカウトを受けたのです。そして兄、誠一は都平健二、長谷見昌弘とともに日産スポーツ自動車相談室の技術指導員兼ドライバーとして所属することになりました」

そして1968年、神奈川県川崎市にレース会社として創業されたのが東名自動車。立ち上げメンバーはその後も2輪でレースを続けていた久保兄弟も含めた、城北ライダースで苦楽を共にしてきた仲間たち8人だったという。

東名自動車の創業と同時に参戦したストックカーレースでは、兄誠一がドライバーとなり3年連続でシリーズチャンピオンを獲得。写真は1968年11月のワールドチャレンジカップ富士200マイルで優勝した30セドリックだ。

「レース用エンジンやシャーシチューニングの専門ファクトリーを作りたいという日産の依頼を受けたのが会社設立のきっかけでした。しばらくの間、兄・誠一は昼間は大森の日産、夜は東名自動車で働くという過酷な生活を続けていましたが、兄・誠一を含め社員は全員がクルマ好き、メカ好き、レース好きということもあって一年中休みもなく夜中まで働いていましたね。

私はそんな技術者集団の中に、経理や事務作業、営業など、レースやチューニング以外のすべての業務を担当する事務方兼社長として呼ばれ加わったのです。皆さんもちろん旧知の方々です。

最初の頃の業務としては日産からの開発やパーツ製作依頼に加え、一般のお客さんのクルマも手がけ、手曲げのエキマニや、鉄ホイールを加工したワイドホイールなどの製作も行い、何もかもの生産が間に合わないほどの人気でした」

カローラワンメイク状態だったトランスニッポンクーペシリーズに、東名自動車チューンのB110サニークーペがたった1台で挑戦。見事優勝してみせ、東名自動車の名は一気に知れ渡ることになった。

創業期には当時はまだ稀少で秘伝ともされたレース用パーツをお客さんにも隠すことなく販売した。となると、時代と共にレースやチューニング環境が変化してきた中で、現在のようなパーツメーカーになっていった理由やきっかけも気になるところだ。

「やはり東名自動車としての最初の試練は創業の中心人物、兄・誠一の事故死で、周囲からは『東名はもう終わりだな』と言われたものです。しかし、故誠一さんの技術指導を受けたエンジニアたちは、レース用エンジンの開発によりいっそう力を入れ、持ち前の開発力と製造技術を生かしたオリジナルパーツの開発・製造・販売にも尽力した。

その次の大きな転機になったのが、1984年のニスモ発足。引き続きF3エンジンの開発委託などはありましたが、同じ日産陣営の中にあって、レースでもアフターパーツでも大きなライバルの登場です。その流れの中で、1986年にエンジンメンテの東名エンジン、シャーシメンテの東名スポーツを分社化し、東名自動車はパーツ開発と製造に専念。対象車種やエンジンを日産以外にも拡大し、1994年の町田市移転に合わせて社名も東名パワードと変更することとなったのです」

「チューニングパーツメーカーへの転換」鈴木純三氏

こうして創業からの歩みを振り返ってみると、レースを主軸に技術を磨いてきた東名自動車時代に対し、東名パワードとなってからはそれまでの開発力と技術力に加え、市場の動向に沿った“ものづくり”を軸とする姿勢がより明確になってきたと言えそうだ。

東名パワードを代表するパーツであるカムシャフトは、グラインダーのような機材による手習い加工から始まった。その後、1986年のコンピュータ制御機の導入で生産能力が飛躍的に向上。現在はさらに性能の高いマシンでカムの製作が行なわれている。

その中でも創業当時から現在に至るまで、東名パワードを代表するパーツとして高い評価を受け続けているのがカムシャフトだ。

鈴木純三氏:兄・誠一氏が亡くなってしまった際、その兄が残した東名自動車(現・東名パワード)を支えるべく、2輪系レースガレージを辞職、東名自動車に合流したという鈴木純三氏。入社後は一貫してカムシャフトの開発に関わり、「カムシャフトの東名」と言われるほど高性能な製品を産み出し続けた。

その開発現場で長年に渡り、辣腕を振るってきたのがやはり鈴木誠一氏の実弟のひとり、三男の鈴木純三氏だ。兄・誠一氏が亡くなってしまった際、その兄が残した東名自動車(現・東名パワード)を支えるべく、2輪系レースガレージを辞職、東名自動車に合流した。入社後は一貫してカムシャフトの開発に関わり、「カムシャフトの東名」と言われるほど高性能なカムシャフトを産み出し続けた人物である。

「最初はグラインダーのようなアナログな倣い加工機材でのカムシャフトからスタート。その後、日産からカム研削機を譲り受け本格的に量産製作ができるようになりました。そして、86年にコンピュータ制御機を導入したことで開発速度や製造能力が飛躍的に向上しました。

さらに時代が流れ、生産性の高い加工機材をいち早く導入したことで生まれたのが、96年に発売した『ポンカム』です。バルタイ調整不要の手軽さと低中速の重視の味付けが、カム交換へのハードルを一気に下げることになりました。量産によって達成したコストダウンを武器に、手の届く価格設定にしたことも大きな反響となりましたね」

今では多くのメーカーが手がけるコンプリートエンジンの先駆けとなったのが、1998年にリリースしたGENESIS。熟練のメカニックが組み上げたエンジンにより、それまでのチューニングエンジンのイメージが一変した。

この他にも東名パワードが先駆けとなり、今ではチューニングのスタンダードになっているパーツやメニューは数多い。よく知られているものとしては、コンプリートエンジンや排気量アップキット、ピストンの三次元プロフィール、クーリングチャンネル、バッフル内蔵のオイルパンなどがそれに当たるだろう。

常識的なセッティングツールとなっている空燃比計(A/F計)も、東名パワードでは90年代初頭にリリース。排気温度を目安としていたセッティングが一変した。

さらに、A/F計やインタークーラーのウォータースプレー、マスターシリンダーストッパー、トライアングルタイプのタワーバー、ショートストロークサスなども、実は東名パワードがパイオニアだったのだと言う。

東名パワードの未来・・・

こうして昭和から平成、令和へと時代を超えてチューニングを牽引してきた東名パワード。となれば、誰もが気になるのは今後の展開だ。

「現在は自動車にとって大きな変革の始まりと言えます。しかし、これからも変わらないのは、創業以来一貫して追及してきている勝利の喜びを共有するための耐久性や性能への拘りです。そしてそれを実現するために最重要と考えているのが、技術者同士が互いを高めあうための競争です。

事業的には、今後増加していくであろう電気自動車やハイブリッド、FCVなど次世代自動車への取り組みも重要ですが、一方でガソリンエンジン車を長く乗り続けていくための環境作りも東名パワードの使命だと思っています。そのためにエンジンパーツにはこれからも追求していきます。クラシックカーのレストアやメンテナンス業務も然りですね。

披露する機会は少ないのですが、実は最近でもポルシェやマセラティ、日産R380などの名車たちが、様々な方面からの依頼で入庫しメンテナンスされているのです。

昨今は特に都市部を中心に若者のクルマ離れが進んでいると言われますが、この事情を反転させ、クルマ好きを少しでも増やしていくことも我々のすべきことなのでしょう」と、鈴木修二顧問は最後に締めくくってくれた。

来たるべき未来に向けて、東名パワードはこれからも力強くチューニング界を牽引していってくれるに違いない。

●取材協力:東名パワード TEL:042-795-8411

【関連リンク】
http://www.tomei-p.co.jp

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