「チューニング文化を作るためにスタートした自動車雑誌“OPTION”」栄えある創刊号の衝撃的巻頭企画をプレイバック!

創刊号企画はRE雨宮RX-7で本州爆走キャノンボール!

さぁ振り返ろう、あの頃の熱きチューニング創成期を

80年代初頭、若者がクルマを持つことをステータスとし、しかもカッコ良いスポーツカーに乗っていればモテる時代が確かにあった。そんな時代の1981年に創刊された自動車雑誌が「OPTION」だ。

記事のメインは、クルマのチューニング。チューニングショップやチューニングメーカーの作ったマシンによる最高速・ゼロヨンテストや、速く走るためのエンジン、フットワークチューン紹介。また、納得のいかない異様な交通取り締まりに喝!や、ストリートに生きる走り屋紹介などなど。

創刊当時のOPTION誌には、新車のインプレッション記事など皆無。いや、そもそも自動車メーカーからは「あの雑誌は危険な暴走族雑誌だから」と思われていたため、試乗会に誘ってもらえなかったというのが本当のところなのだが…。

そんな中で、一番人気となっていた記事が、日本自動車研究所(通称:谷田部)の高速周回路を使用しての最高速、ゼロヨン計測だった。そして「新記録達成!」などの文字が誌面を踊ると、その世界に魅了されているクルマ好き達は大興奮!

しかし、記事の内容によっては、国の偉い機関からお小言を言われたり、取り締まりの参考にお巡りさんが読み漁っていたり、編集長が呼び出されたり…。

読者投稿コーナー「グランパスクラブ」に採用されるとプレゼントとして送られるOPTIONステッカー(初代モデル)。クルマに貼って読者同士が街中でコミュニケーションをとる楽しい手段として大人気だった。

現在、5万部、10万部発行となると物凄く売れている自動車雑誌という扱いになるが、バブル全盛期のOPTION誌は、水増し無しで35万部〜40万部の実売を誇り、1号あたり1億円の広告収入があったほど。それだけモンスター雑誌だったのである。

決して懐古主義というわけではないが、チューニングの世界は約40年という長大な歴史の上に成り立っている。東名レースの幕開け、パーツメーカーの誕生、チューナー達の挑戦…。それらの貴重な情報を、紙に埋もれさせたままにしておくのは勿体無い!

言わばカルチャーの伝承。今なお走り続けているレジェンドチューナーや、当時の走り屋の方々から改めて話を聞きつつ、危険ながらも魅力溢れる熱きチューニング創成期を当時のOPTION誌とともに振り返る…、そんなシリーズを始めてみようと思う。

さて、そんなストリートに生きる走り屋さんのバイブル、OPTION創刊号(1981年6月号)のメイン記事は、映画「キャノンボール」の日本版へ向けての第一歩とするべく行った、本州激走レポートだ。

青森県・下北半島大間岬から山口県下関関門橋までの、走行距離1800km、所要時間22時間、平均スピード81.8km/h。走るマシンは、RE雨宮自動車の200psオーバー13Bサイド・キャブ仕様のRX-7(SA22C)。

途中、ミッショントラブルやエキゾーストマニフォールドの亀裂、雨で濡れた路面との戦い、パトカーとの遭遇…などをクリアしつつ、ワインディング、一般道、高速道路でゼロヨンや最高速計測をしながら走破。長距離走行に決して優しくはないチューニングカーであるRE雨宮のチューンドセブンが、本州縦断をやり遂げたのだ。

記事の最後は、こう締めくくられている。

「この国のクルマ意識はそう高くない。スピード=暴走と見られるし、クルマを使いこなすセンスも低い。運転もアメリカやヨーロッパ先進国と比べると下手だ。自由を自分の責任で享受できるクルマ好きが少ない。つまり、日本では、(キャノンボールをやることが)非常に大きな危険性を伴うことも事実なのである。が、激走の精神はやはり永遠だ。日本版キャノンボールが開催される日こそ、オレたちのカーライフが大人の時代を迎えた時ではないだろうか。その日が早く来ることを祈りたい」。

コンプライアンスなどクソ食らえ、今の時代の編集者では絶対に書けない文章だ。

当時、世間一般からは「チューニングカー、いや、改造車なんてものは、危ない暴走族たちの乗り物」としか見られていなかった。しかし、今では自動車メーカーがチューニングを施した特別仕様のクルマを販売している。チューニングカー=悪という図式を徐々に崩していった、その第一歩が、OPTION創刊号のトップ記事に表現されていたのだ。(1981年6月創刊号より)

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