津波の恐怖。国道に立つ「海抜4m」標識

沿岸バスの羽幌本社前から発車する留萌市立病院行き路線バスと豊富駅行き特急バス。
羽幌から留萌までの国道232号線は、片側が日本海、片側が断崖。津波が来たら逃げ場がない。
国道232号線は雪崩の危険もある。
津波警報が出るとバスを止め、崖を登る手すりを伝わって逃げる。

14時24分に羽幌ターミナルを発車した留萌市立病院行きのバスは、除雪が進む羽幌の市街地を抜け、羽幌高校前を通って国道232号線に出る。暴風雪に閉じ込められた2日間が明け、下り上りとも交通量は多い。町内の除雪作業は精力的に続けられていて、雪を積み込んで捨て場に向かうダンプカーが列を作っている。

国道の流れに乗ってバスは快調に進んでいく。道はゆるやかなアップダウンを繰り返し、前方に夕陽に映える海が見えてくると長くゆるい下り坂をすべっていく。国道は波しぶきのかかりそうな海辺を走り、やがて切り立った崖が迫ると、それを避けるように丘陵を登っては下る。次々と現われる注意標識。

「この先風強い 路面変化あり」

「ここの標高は海抜6m」

「道路緊急ダイヤル#9910」

「次のエネオスSSまで6km 」

山の斜面にところどころに鉄の柵が頂上に向かって打ちこんである。斜面地形に合わせて階段状になっているところもあれば、単に山肌に手すりが打ち込んであるところもある。国道は海抜6m前後のところを走っているので、万一、海底地震による津波が来たときにはこの柵をよじ登って避難するためだ。

「万一、津波が来たら国道232号線は逃げ場がありません。苫前から古丹別へ向かう国道239号線を除けば、脇に入る道は狭いのでバスが通れるかどうか。私たちにとっては通い慣れた路線ですから、津波警報が出たらどこにバスを停め、お客さんを誘導してどの斜面を登ったらいいかはだいたい把握しています歩くのが不自由なお年寄りもいますからね」(沿岸バス運転手A氏)。

日本海で発生する津波は地震の規模に比較して波高が高く、かつ津波到達までの時間短い特徴がある。日本海沖で地震が起きた場合、波高30cmの津波到達時間は、留萌、小平、苫前、羽幌、初山別で最短20分、遠別、天塩ではわずか数分と予想されている。

甚大な津波被害が出た北海道南西沖地震が起きたのは、1993(平成5)年7月のことだった。奥尻島の北方を震源とするマグニチュード7.8の大地震により、奥尻島は発生後わずか数分で、最大波高16.8m(初松前地区)、遡上高(這い上がった津波の高点)31.7m(藻内地区)の津波に襲われた。震源域が奥尻島近くの海底であったことから地震発生から津波到達までの時間がきわめて短かく、見通しの利かない夜間だったことあって被害が大きくなった。地震発生から約5分で寿都から平浜町へ5~10mの津波が押し寄せた。この地震による奥尻島の死者は202人に達している。

大雪で道路がマヒした留萌市。路線バスは経路を変更

留萌市内は除雪した雪が壁となって通行やすれ違いが困難になる。路線バス、特急バスともに市内を通らない経路に変更される。
留萌市内の通行が困難なため経路を変更した災害対策便
経路変更を知らせるバスの掲示

留萌市立病院行きのバスは小平町を過ぎる。ここから留萌市街地の入口に差しかかるあたりは、日本海からの波浪や長雨どきの法面崩落に見舞われる難所で国道232号線の隘路のひとつになっている。小平防災と呼ばれる沿岸対策工事は3.7kmにわたって実施されていて、急な法面に打ちこまれたパイルが堤防のように立ち並ぶ。北海道開発庁留萌開発建設部は天塩と留萌を結ぶ国道232号線を重要な生活道路と定義し、大規模な防災工事を進めている。

通常、留萌市立病院行きの路線バスは、留萌川を渡って、いったん市街地の西側をバイパスする国道231号線に入り、留萌十字街、錦町、開運町などの市街地中心部を経由して留萌駅前に出る。そのまま末広町、高砂町、元川町を通って市立病院まで走るルートである。

留萌市は令和6年1月15日に北海道日本海沿いを襲った低気圧の影響をまともに受けた。午前10時には累積積雪量が223cmにおよび、市内の道路は除雪車による雪の壁に覆われた。そこへ警報が出されるほどの暴風雪に襲われたのだから、市内の道路が完全にマヒしたのである。猛吹雪が去ったこの日、路線バスは留萌十字街や錦町を通らず、直接、留萌駅前から病院に向かルートを通った。大雪によって市内の道路が狭まったことから市中心部を通らずに病院へ達する変則経路だった。

「ここ数年、留萌は豪雪に見舞われて市内の交通がマヒする事態が起きていました。市の回り走る国道は往復4車線で道幅が広いのですが、市内の道の大部分は2車線なので除雪された雪が道の両側に積み上げられて壁になってしまうそうなるとクルマが走れるところが狭くなって、大型車がすれ違えなくなるのです。その頃は雪捨場がなかったので道がますます狭くなって、市内の通行は完全にマヒするありさまでした」(沿岸バス営業課斉藤寛氏)

令和6年1月9日付の北海道新聞は豪雪にあえぐ留萌市民の模様を伝えている。

「片側1車線の道路では車1台が通行するのがやっとで、車同士がすれ違えない場所も。沿岸バス(留萌管内羽幌町)の市内路線は『安全運行が確保できない』として、3日から運休。7日には一部路線を除き、運行再開に踏み切ったものの、20cmの雪が降り、すぐに断念した。高齢者にとって、バスは欠かせない。脳梗塞を患い、自宅近くからの停留所からバスで市立病院に通う市内の無職男性(78)は8日、足を引きずりながら、約20分歩いて別の停留所に向かった。市内と同管内増毛町や羽幌町を結ぶバス路線は道幅が広い国道を主に通るため、市立病院まで乗っていける。同病院には4日以降、定期的に受診している患者から『行けない』との連絡が相次ぎ、外来患者数は1日440人程度と、前年より3割近く減少。病院側は電話で症状を聞いた上で、処方箋をファクスなどで患者の最寄りの薬局まで送る措置も取り始めた」。

雪が小康状態となった1月10日ごろから除雪作業が本格化し、生活道路は次々と走行可な状態を取り戻していった。1月11日付の日刊留萌新聞は「緊急措置の災害対策便を運行」と題して沿岸バスの対応を報じている

「沿岸バスは、道路運送法17条に基づく緊急措置として9日午後、沖見団地停留所(沖見町5丁目)~留萌市立病院間で災害対策便の運行を開始した。災害対策便は、沖見市立病院線復路(留萌市立病院-留萌駅前-留萌十字街-沖見町3丁目-沖見団地停留所)が9日午後2時56分から、同往路(沖見団地停留所-港南中学校前-留萌十字街-留萌駅前-留萌市立病院)が同3時8分からそれぞれ運行を開始。留萌市立病院行きの往路は7便、沖見団地停留所行きの復路は6便が運行している」。

羽幌線の廃止から沿岸バス転換の経緯

羽幌、築別炭鉱で掘り出される石炭を運んだ羽幌線
羽幌、築別炭鉱で掘り出される石炭を運んだ羽幌線
羽幌線の廃止問題を伝える当時の新聞
駅の代わりに沿岸バスが建設した路線途中のトイレ付き待合所

昭和45年、羽幌炭鉱は35年の歴史にピリオドを打った。多くの炭鉱町がそうであるように、閉山とともに人口が急激に減少し、羽幌町の人口は昭和40年の30,266人をピークに昭和47年は半数の15,000人、昭和50年は13,624人と昭和40年比45.01%となった。

羽幌線はドル箱だった貨物輸送が廃止され(昭和59年)、札幌へ直通していた急行「はぼろ」が廃止されるなど(昭和61年)、外堀を埋められる格好で廃止へむけて環境が整えられていった。沿岸バスが札幌-豊富間に特急「はぼろ号」(2系統3往復国道275号線経由)を新設したのは昭和59年12月のことである。

昭和61年12月21日付けの日刊・留萌新聞に「代替バス事業者・沿岸バス一社に」の観測記事が載り、追って昭和62年元旦の朝刊に「ポスト国鉄・沿岸バスに内定」と題する記事が載った。

「羽幌線は鉄路は消えるもののバスという新しい交通手段により、その交通ルートは残り、自動車輸送時代の新しい幕開けを告げる。高校通学生の登下校をスムースにする、管内の市町村を快速便でつなぐなど、”鉄道より早く便利に”のプランが練られている」。

国鉄・羽幌線が廃止されるまで、沿岸バスは留萌-羽幌、羽幌-遠別、遠別-天塩なをコマ切れに結んでいた。羽幌線の廃止代替輸送を一手に担うことになった沿岸バスは、沿線自治体の要望を取り入れ、路線ネットワークを再構築することになった。留萌海岸沿いのルートを留萌-幌延間に延長するとともに一本化した。羽幌と国道232号線はところどころ離れている場所もあったから、新たに羽幌線の駅付近を通る派生ルートを作る必要があった。古丹別の集落は国道232号線から遠く離れていたから、上前から古丹別へ入り込む新たな路線を設定する必要があったし、苫前の旧市街である下町を通る路線や更岸、歌越などの集落へ入る派生ルートも追加された。

 昭和62年3月30日、国鉄民営化を翌々日に控え、沿岸バスは羽幌線代替バスを走らせめた。幌延ー旭川間を結ぶ快速バス2往復、幌延ー羽幌ー留萌間に区間運転を含めて約18往復。廃止直前の羽幌線は深川-幌延間3往復、留萌-幌延間2往復、留萌-羽幌間1往復だったから、バス転換によってフリークエントサービスが実現するとともに、沿線自治体が強く求めた高校通学生の足も十分に確保されていた。

しかし、その後、日本はバブル崩壊をへて、「失われた30年」とよばれる長期の経済停滞、デフレスパイラルに陥り、それとともに、地方経済の停滞、過疎化、少子高齢化が進んだ。地方輸送を直撃したこうした環境の変化は「鉄道廃止→バス転換」の図式に陰りをもたらし、地方交通の最後の砦たるバス輸送に危機が訪れようとしている。

取材協力 : 沿岸バス株式会社

文・写真・椎橋俊之

真冬のさいはてを走る北海道路線バス 終点に向けてラストスパート第4回 | Motor-Fan[モーターファン] 自動車関連記事を中心に配信するメディアプラットフォーム

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