あこがれのバス運転手を目指す


宗谷バスで運転手を務める黒田政則氏と山下繁光氏が入社したのは、東京オリンピックが開催された昭和39年のことだった。
クルマ好きだった黒田氏がバスの運転手にあこがれを抱いたのは、中学生の修学旅行で洞爺湖を訪れた際、さっそうと大型バスを運転する白い手袋姿がかっこよく思えたからである。
「バスの運転手になりたくて、中学校の卒業式の翌日、宗谷バスに入ったのですが、免許を持っていないので車掌からスタートです。車掌は当時、運転手になるためのステップでした」(黒田氏)。
運転手を目指す若者にとって、先輩の仕事ぶりを間近に見られることはこの上ない勉強となった。
「宗谷岬を過ぎてお客さんが降りてしまうと、『運転やってみるか』とハンドルを握らせてくれる。うれしいやら、ビックリするやら、のんびりしたいい時代でしたね」(黒田氏)。
一方、メカ好きだった山下氏は整備士を目指した。車掌を2年経験しないと整備士になれないという社の方針に従ったのだが、先輩の2人が整備士の道に進んだことで、運転手を目指すことになった。
黒田氏と山下氏が車掌として乗務したのは、稚内営業所管内の路線バスである。稚内市の中心部を南北に走るノシャップ線、稚内駅前から南稚内駅を経由して富岡、潮見に至る富岡線、ノシャップから稚内駅前経由で声問を結ぶ声問線、さらに稚内駅前と宗谷岬、鬼志別を結ぶ長距離路線もあった。途中、猿払村の知来別には営業所があって、最終で行くと一泊して翌朝の始発で戻る仕事もあった。
ボンネットバスからキャブオーバーへ


昭和40年代のはじめボンネットバスが残っていたが、時代は乗車定員の多いリヤエンジン・キャブオーバータイプへと移行していく。
終戦後、アメリカ駐留軍が持ち込んだリヤエンジンバスを参考にして国産バスが登場したのは昭和24年。フレームを省略したモノコック構造で、車体の全長にわたって座席が設置できることから、たちまちボンネットバスを駆逐することになった。
宗谷バスの所有するバスの中にエンジンを車体中央に吊るすセンター・アンダーフロア・エンジン車があった。日野自動車工業が昭和27年に発表した「ブルーリボン」は、ボディ(全長10m、ホイールベース4.8m)中央の床下に直列6気筒7Lエンジン(110馬力)を吊り下げ、車内全長にわたるフラットな床は最大限の床面積を確保していた。エンジンは、国鉄の液体式気動車と同じように、横倒しに配置されていたが、防火性を考慮してシリンダーブロック上部にドレン通路を設け、噴射ポンプからの燃料漏れに備えている。エンジン下面と路面のクリアランス確保は特に留意され、試験の結果、空車で30cm、定員乗車時に26cmと決められた。広大なフラット床、前後軸重の理想的な配分などリヤエンジン車にまさる特長を持ち、昭和29年にはエンジン出力を125馬力に上げた沖縄向けの左ハンドル車も製造されている。
「アンダーフロアエンジンバスは車内からフタを開けてオイルをチェックするのですが、エンジンの音がまともに車内に入ってきてうるさかったですよ。当時は国道も舗装されていなかったのでダンパーがよく壊れました。酔っちゃうお客さんもいました」(黒田氏)。
宗谷地方の悪路、風雪との戦い


昭和42年当時、北海道における舗装率は一級国道が83%、主要都市を結ぶ二級国道は50%に満たなかった。
「稚内の市街地を出て空港までは舗装されていましたが、その先はホコリがもうもうと舞う砂利道でした。国道238号線は改良されるまでカーブが多くてひどいものでした。枝幸まで往復するとバスはホコリで真っ白。車内にも入ってくる。それがシートに吸い込まれて、砂利道の振動で車内に舞い上がるわけです。いつも車内はホコリで霞んでましたね。お客さんも辛抱強かった。あれだけガタガタ揺れても不思議と酔う人はいなかったですね」(山下氏)。
宗谷の冬の寒さは今も昔も変わらない。かつては、朝にバスのエンジンがかからないことがあったという。極寒でエンジンオイルが硬くなり、その抵抗でクランクシャフトが回らなくなることもあった。運転手はスコップに燃えさしの石炭を乗せ、下からオイルパンを温める手順を踏む必要があった。
「セルモーターの代わりにクランク棒でエンジンを回して始動させるのです。エンジンがかかると同時にクランク棒を抜くのですが、手が滑って抜けないとクランク棒がものすごい勢いで回って吹き飛ぶこともありました。途中でエンジン故障したバスを引っ張ってくることもありましたが、牽引中にフックが外れたりロープが切れたりすると後ろのバスに向かって猛烈な勢いでフックが飛んでくるものだから、引っ張られる方の運転手は命懸けでした」(山下氏)。
真冬の稚内は悪天候に見舞われる。昭和41年の12月~翌月2月の累積降雪量は463cm、1日当たりの最大積雪量30cm、この期間の最深積雪量は120cmと記録されている。3カ月間の平均風速は5.1m/s、最大風速17.8m/s、瞬間最大風速は28.1m/sというから吹雪の猛威が想像できよう。
「市内の道幅の狭いところで路面がねっぱると(雪が粘りついてタイヤがグリップしない状態)、バスは図体が大きいので自由が利かなくなりすれ違いできなくなるのです。雪で路肩が盛り上がっているとバスが傾いて屋根同士がぶつかりそうになります。そういうときは車掌がバスに積んであるスコップで、盛り上がった路肩寄りのタイヤの下を掘って水平に戻さないと走れません。女性車掌のときは運転手が代わりに掘る。バスが完全に埋まって掘り出せないときは営業所に『バスが埋まってしまった』と電話して応援を呼びます。職員総動員で猛吹雪のなか何時間もかかって作業するのですが、冬はどうしても運休が多かったですね」(黒田氏)。
悪天候に立ち向かう女性運転手


田村弥生さんは、宗谷バスただひとりの女性運転手である。入社は平成23年10月、勤続14年。枝幸-雄武間、枝幸-浜頓別間の路線バスに乗務しているベテランだ。田村さんはお父さんが宗谷バスの 運転手を務めていたこともあって、幼い頃からバスの運転手にあこがれていた。ハイヤー会社で優秀運転手として表彰された田村さんは、大型二種免許を取って10年目、念願のバス運転手になる。
眺めのいいオホーツク海岸沿いの道は、冬になれば地吹雪が乱舞する試練の道のりに姿を変える。特に枝幸から雄武までは逃げ場のない海沿いをひた走ることになるから、強い横風に負けない慎重なハンドルさばきが求められる区間だ。
「就職したばかりのクリスマスでした。吹雪警報が出ていて枝幸から雄武に向かうバスに乗務したのですが、音標(おとしべ)のあたりで山側からのものすごい横風に遭ってバスが流されたのです。ああ、海に落ちると咄嗟に右へハンドルを切ったら、突然グリップが戻ってなんとか立て直すことができました。心臓バクバクですよ。雄武に着いて枝幸まで回送で戻るのですが、一カ所だけ高校生が待っていたら停まっていい停留所があります。その日は女高生がひとり吹雪の中で待っていて、枝幸まで送り届けることができました」。
オホーツク海沿いに走る宗谷バスは、市街地を抜けると停留所のないころでも乗降できるフリー乗降区間となる。
「停留所ではないところでも道に出て手を挙げてくれればお客さんを乗せるのですが、暢気なお客さんが手を挙げながら家から出てきたりしますから、バス停ではないところでも回りをよく見ていないといけないのです。あのお客さん手ぶらだけどバス乗るのかなぁと思ったら1回は停まってみないと。吹雪でも待っているお客さんはいますし、バス停じゃないところでもお客さんが乗り降りするフリー乗降のむずしかしいところですね」。
田村さんはたいていのお客さんと顔見知りだが、お客さんが乗ってるときは必ず声をかけるようにしている。そのお客さんはどこで降りるかも把握しているが、なかにはせっかちなお客もいて、バスが家の近くまで来ると立ってしまう人もいる。
「××さん、いつもの小屋の近くで降りるんですよね。ちゃんと停まりますから停まるまで座っててね、危ないから」

