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ワークスKRシリーズの変遷
1980年代のカワサキが世に送り出した2台の2ストロークKR、1984~1985年型KR250/Sと、1988年から発売が始まったKR-1/S/Rは、同社にとっては成功作とは言い難いモデルである。もっとも、いずれも総生産台数は1万弱……と言われているので、近年の日本市場における250ccクラスの販売台数を基準にするなら、その数字は決して悪くはない。ただし、同時代のライバルだったヤマハRZ250RやTZR250、スズキRG250Γ、ホンダNSR250Rが、全盛期に“年間”2万台以上を記録していたことを考えると、やっぱりKRの人気はいまひとつだったのだ。
ではどうして、KRは人気車になれなかったのだろうか。当記事では、その理由をさまざまな角度から考えるつもりだが、本題の前にKRの概要を説明しておこう。カワサキレーシングの略であるこの英字を初めて使用した車両は1975年の2ストワークスレーサー、並列3気筒のKR750とタンデムツインのKR250で、以後の世界GPで活躍した2スト350/500ccレーサーも同じ英字を踏襲していた。
そして1980年から世界耐久選手権への参戦を開始した、4スト1000cc並列4気筒のワークスレーサーもKRを名乗るのだが、2ストと4ストが同じ英字を使用することに、違和感を抱く人がいるかもしれない。もっとも、各社のレーサーの歴史を振り返って、エンジン形式で車名をきっちり分けたのは1970年代からRG/GSを定番にしたスズキのみで、ホンダは両方にRSを使っていた時期があるし、かつては2スト用と思われていたヤマハのYZRは、2002年以降は4ストのMotoGPレーサーも採用している。
KR250の敗因はルックスなのか?
カワサキ初の2ストレーサーレプリカとして、1984年にデビューしたKR250の最大の特徴は、ワークスレーサーの技術を転用したタンデムツインエンジンだ。ただし、同社初のアルミフレームも画期的な要素で、当時の最先端技術だったフロント16インチやリンク式モノショックには、開発陣のこのバイクにかける意気込みが表れていた。なお最高出力は当時のクラストップにして自主規制値上限の45ps、乾燥重量はクラスで2番目に軽量な133kgで、現役時代に専門誌が行ったテストでは、ライバル勢にまったくヒケを取らない、190km/h前後の最高速とラップタイムをマークしている。
そんなKR250が人気を獲得できなかった最大の理由は登場時期……と、個人的には思わなくもない。そもそもの話をするなら、後に2ストレーサーレプリカの原点と呼ばれるヤマハRZ250が1980年に発売されて以来、多くのライダーはカワサキの対抗馬を期待していたのだ。何と言っても2ストタンデムツインのワークスKRは、1978~1981年の世界GP250で4連覇、1978~1979/1981~1982年の世界GP350で2連覇×2を達成していたのだから。
でも残念ながら、公道用のKR250がデビューしたのは、RZ250の登場から4年が経過した1984年。せめてスズキRG250Γと同じ1983年、欲を言うなら1982年に発売されていたら、KR250は人気車になれたのかもしれない。
もっとも世間では、レーサーレプリカでありながら、ルックスがワークスKR250に似ていなかったこと、中途半端にGPZ900Rの雰囲気を取り入れたことが、このモデルが成功できなかった主な原因と言われている。ただしそういうことを言うなら、ワークスKRと公道用KRが似ていないのは、実は外観だけではなく、メカニズムにもほとんど共通点はなかった。また、トラブルが多かったこと、2ストを得意とするカワサキ系チューナーが少なかったことを、KR250の問題点として挙げる人も少なくない。でもその2点は、ライバルのRG250ΓとMVX250F/NS250Rにも通じるところがある話で、逆に1980年代前半の2ストレーサーレプリカで、トラブルが少なく、さまざまなチューナーが存在したのは、RZ/RZ-Rだけだったのである。
だからこそ、RZ/RZ-Rは圧倒的な人気を獲得し、スズキとホンダはその牙城を打ち崩すべく、以後も懸命な努力を続けたわけだが、カワサキは1985年に排気デバイスのKVSSを装備するKR250Sを発売した時点で、2ストレーサーレプリカの開発を(いったん)中止。その事実をどう感じるかは人それぞれだが、現代とは比較にならないほど移り変わりが激しかった当時において、KR250/Sの生産終了を惜しむ声はほとんど挙がらなかったようだ。
予想外のパラレルツインを選択したKR-1
もうカワサキは、2ストロードスポーツは作らないだろう。多くのライダーがそう感じていただけに、1987年の東京モーターショーで同社が公道用KRの2代目、KR-1を発表したことは驚きだった。もっともそれ以上に驚きだったのは、エンジンがパラレルツインだったことかもしれない。当時のカワサキに2ストパラレルツインのイメージはまったくなかったし、1980年代後半の2スト250ccレーサーとロードスポーツの世界では、パラレルよりV型のほうが優勢……というムードが出来つつあったのだから。
そのムードを作ったのは、1986年秋の登場と同時に爆発的な人気を獲得し、以後のこの分野の主導権を握ったホンダNSR250Rだが、ヤマハの2スト250ccワークスレーサーも1986年からはVツインを採用していたし、スズキRG-Γも1988年型でエンジンをパラレル→V型に変更。言ってみればKR-1には、時代を読み違えた感があったのだ。
と言っても、RZ/RZ-Rの大幅発展型としてヤマハが1985年から発売を開始したTZR250シリーズは、1990年まで伝統のパラレルツインという形式を維持していたのだけれど、1989年型からは革新的な前方吸気・後方排気を採用。その結果としてKR-1は、一世代前のバイク……的な扱いを受けることが多くなってしまったのである。
ただし初代KR250と同じく、KR-1も戦闘力が低かったわけではない。当時の専門誌が行ったクローズドコースのテストの数字は、ライバル勢に微妙に及ばなかったけれど、その原因はレーサーレプリカ全盛期に公然の秘密だった、広報チューンにカワサキが長けていなかったからという説があるし、メーカーが準備したF3キットを装着すれば、最高出力は70psに向上すると言われていたのだから。
もっとも、2スト250ccレーサーとロードスポーツの世界からしばらく離れていたカワサキが、熾烈な争いを続けて来た3メーカーの間に入り込む余地はなかったようで、KR-1の販売は低迷。1989年には進化型/上級仕様としてKR-1S/Rが登場したものの、この年のカワサキは話題性抜群の4スト並列4気筒車、ZXR250/400/750とゼファーを発売したため、運動性に磨きをかけた2ストに注目する人はわずかしかいなかった。結果的にKR-1S/Rは、1990年型を最後にカタログから姿を消すこととなったのである。
ところで、KR-1/S/Rの分類はちょっと微妙で、まずKR-1には原点となるレーサーが存在しないので、厳密に言うとレーサーレプリカではない。ただしKR-1S/Rは、前年のチームグリーンによるレース活動のノウハウが注入されているはずなので、紛うことなきレーサーレプリカである。また、最高出力が自主規制値上限の45psだった日本仕様に対して、1991年以降も販売が続いた輸出仕様は、KR-1:55ps、KR-1S:60ps、という数値を公表していた。
さて、改めて歴史を振り返ってみると、どうにもいいところが見つけづらい2台のKRだが、当記事の取材でKR250とKR-1Sを初めて走らせた僕は、予想外のライディングフィールに感心し、目からウロコをボロボロ落とすこととなった。その模様は第2/3回目でお伝えしたい。