佳人薄命 セアト“ボカネグラ”を知っていますか?Lorenzo’s perspective Voi.7

イタリア・シエナ在住の大矢アキオ・ロレンツォさんのコラムVol.7。
少年時代の大矢さんの心を奪ったクルマ、セアト・スポルト [SEAT Sport]のお話です。
様々な登場人物の思惑や、時代の波に翻弄され数奇な運命を辿ったクルマと大矢さんの予期しなかった出会いのストーリーをお届けします。
Text : 大矢アキオ ロレンツォ Akio Lorenzo OYA
Photo : Akio Lorenzo OYA、SEAT、Joël Lansard Archive

ボンジョルノ!在伊ジャーナリストの大矢アキオ ロレンツォです。

2024年は、日本の自動車業界は「日産-ホンダ-三菱が経営統合に向けた協議を開始」という、大きなニュースで締めくくられました。そこで今回は、優れたデザインをもちながら、企業再編の波に翻弄された1台を紹介します。

「セアト・スポルト1430」。 2024年10月12日、パリ南郊リナ=モンレリー・サーキットで。
セアト・スポルトには、1200と1430の2種類の排気量があった。今回やってきたのは後者である。

スーパーカーよりも魅力的だった

冒頭から個人的述懐で恐縮ですが、東京で少年時代を過ごした1970年代末、「世界の自動車図鑑」の類は、私にとって教科書以上に魅力的な本でした。その中に、とりわけ魅力的な1台がありました。といっても、他の少年たちと異なり、スーパースポーツカーには関心がなかったので、フェラーリやマセラティではありませんでした。当時フィアット傘下だったスペインの「セアト」による「スポルトSeat Sport」です。独特な黒のフロントまわり、コンパクトながらキャラクターラインを境に小気味よく効かせたタンブル(樽型)フォーム、小股の切れ上がったリアエンドは、筆者を魅了せずにいられませんでした。セアトは日本で1980年代中盤、初代「イビーザIbiza」が一時期並行輸入されたものの、それ以前も以後も正規輸入されたことがありません。そのため、ついぞスポルトの実車を見る機会には恵まれませんでした。

計画中断から一転。メーカーを変えて

そのセアト・スポルトは、数奇な運命を辿ったクルマでした。そもそも誕生からして、“セアトではなかった”のです。デザインの土台となったのは、BASF傘下の自動車用塗料ブランド「グラスリートGlasurit」のイタリア法人が1970年トリノ・モーターショーに展示したプロトタイプ「ネルガルNergal」でした。2+2クーペで、機構部分には、第二次大戦前に遡るドイツの自動車ブランド「NSU」のリアエンジン車「プリンツPrinz1200TT」のものが流用されていました。

いっぽうデザインは、イタリア人デザイナー、アルド・セッサーノAldo Sessanoによるものでした。セッサーノはトリノ工科大学の建築学科で学んだのち、1954年にグラフィック・デザイナーとしてフィアットで働き始めました。56年から68年にはチェントロ・スティーレ・フィアットのチーフデザイナーを務めます。その後独立し、1970〜80年代には三菱自動車のコンサルタントとして1979年「ランサーEX」 1983年コンセプトカー「スターウィンド」などのデザイン開発に参画したことでも知られています。

ネルガルは一時、NSUによって量産化が検討されました。しかし同社の経営は急速に悪化。当時社運を賭けていたロータリーエンジン車は低い信頼性が露呈し、会社の屋台骨を根底から揺るがしたのです。結果としてNSUは1969年、他のドイツ系自動車メーカー「アウトウニオン」とともにフォルクスワーゲン(VW)の傘下入りを余儀なくされます。そうした流れから、ネルガルの量産化計画は撤回されました。

その状況に目をつけたのは、アントニ・アマートAntoni Amatという人物でした。彼はスペインの車体製造企業でセアトのサプライヤーであった「インドゥカー」社でテクニカル・ダイレクターの職にありました。アマートはセッサーノをスペインに招き、ネルガルのデザインを基にしたセアトの新車開発計画に着手します。

パワートレインは当初、NSUプリンツ同様リアエンジンであったことから、セアト「850クーペ(フィアット850のスペイン版)」が検討されました。しかし1971年にフィアットから「127」が発売されたセアト版の生産が決定したことから、そのメカニズムを用いた前輪駆動へと、まさに180°舵が切られました。ただしエンジンは、より馬力があるセアト「124(フィアット124のスペイン版)」用の後輪駆動用1.2リッターエンジンを傾けて搭載することが決まりました。

エクステリアデザインに関していえば、ネルガルで提案されていたリトラクタブル・ライトはコスト上断念されました。しかし、代わりにセッサーノが他のコンセプトカーで先に試みていた黒いフロントマスクが与えられました。この意匠は発売後、ボカネグラ(Bocanegra : スペイン語で黒い口)と呼ばれるきっかけとなります。

こうした開発されたスポルト1200はセアト史上、親会社フィアットには無い初の独自モデルとして1975年にラインオフしました。

リトラクタブル・ヘッドライトは断念されたが、フロントフードにつけられた折り目は、前後に伸びるプレスラインと相まって、灯火がポップアップしそうな印象を与える。
セアトによる新車当時のファクトリーフォト。

熱烈ファンのもとで

私にとって少年時代の夢のクルマである、そのセアト・スポルトの実車と邂逅を果たせたのは2024年10月、パリ郊外のリナ=モンレリー・サーキットで行われた同施設の100年祭イベントでした。メイク別クラブのコーナーで、イタリア車の愛好会が集う一角にさりげなく佇んでいたのです。

オーナーのジョエル・ランサルさんは1950年生まれ。偶然セアト・スポルトの存在を知って、前述のように数奇な誕生の経緯を知るうち虜となったといいます。ガレージにはイベントに乗りつけたブラウンの個体のほか、ペパーミントグリーンと白の2台も。熱意が伝わります。2023年10月に、インドゥカー社ゆかりの地・バルセロナ県タラサで開催された第1回ファンミーティングにも、もちろん参加しました。

さっそく実車を鑑賞させてもらうことに。その端正かつクリーンなエクステリアは、かつて私が思い描いたままでした。フロントフード先端で折れ曲がるサーフェスが織りなすリフレクションの妙は、写真で見るよりも数倍鮮烈です。例の“黒い口”は、1970年代初頭、自動車の安全論議が高まりを受けて自動車メーカー各社が開発した安全実験車ESV(Experimental Safety Vehicle)ものバンパーも想起させます。

初めて見た室内は、広いグラスエリアの恩恵で明るさに満ちていました。このクルマのためにデザインされたというシートは、当時の同クラス車はもとより、機構部分を共有するフィアット127と比較しても上質感に溢れ、着座時の心地良さにも優れています。メーターナセルは今日でも通用するモダンな意匠で、別の部分に自社製既存モデルの部品が多用されていることを忘れさせます。

セアト社がフィアットのライセンス生産のために設立されたこと示すバッジ。
後フェンダーにあるエア・アウトレットは、デザインの始まりがリアエンジンであったことを静かに物語っている。右はジョルジェット・ジウジアーロのデザインによる「アルファロメオ・アルファスッド・スプリント」。
2023年10月、タラサで開催された第1回ファンミーティングの記念ステッカー。
リアウインドウからは、2020年に誕生45周年を祝ったときの記念ポスターが。
オリジナルのフィアット/セアト127とは異なる方向性で、快適性を追求したシート。
ステリングはセアト127の流用であるのに対して、メーターナセルはオリジナルである。
セアト・スポルトを熱く愛するジョエル・ランセルさん。
ジョエルさんのコレクションから。ペパーミントグリーンのボディーが青空と好コントラストを奏でている。
ジョエルさんのガレージ。

スペインの「シロッコ」になっていたかも

しかし、ジュゼッペ・ヴェルディのオペラ『シモン・ボッカネグラ』のモデルとなった実在の人物が悲劇的最期を遂げたように、セアトのボカネグラも幸運とはいえませんでした。記録では81年に最後の1台がラインオフしていますが、本当の意味で量産されたのは79年まででした。立ち上げ年を除くと、僅か4年ということになります。ジョエルさんは「1200と、後年発売された1430を合わせても、全生産台数は1万9332台にとどまったのです」と教えてくれました。これだけ意欲的かつ秀逸なデザインに恵まれたモデルでありながら、成功に至らなかったのです。

私が考える理由の第一は、メカニズムがフィアット依存で、斬新性に乏しかったことです。実際、あまり良好でない燃費やパワー不足は、販売の足を引っ張ったといいます。デザインが秀逸でも、内部の機構が既存モデル流用ゆえに人気が限定的だった同様の例として「いすゞ・ピアッツァ」を思い起こさせさせます。

第二の理由として、こちらは数々の資料が指摘するとおり、フィアットとセアトの間で、製品系列に関する中期的計画が曖昧だったことがあると私は考えます。というのは、スポルト生産開始からわずか2年後の1977年には、新たに「セアト128」を投入。フィアット「128」の機構にトリノのチェントロ・スティーレ・フィアットによるボディを組み合わせたこのモデルは、テールゲートを備えた3ドア車でした。スタイリッシュでありながら実は2ドアだったスポルトよりも、商品性に富んでいたのです。

第三は、フィアットの販売政策に関するディレクションです。スポルトの輸出はフランス、オランダなど欧州の、それも一部の国に限られていました。イタリアで本格販売されなかったのは、フィアットの市場を侵食されることをトリノの本社が嫌ったのでしょう。品質は?という疑問は残りますが、魅力的なクーペが人気を博していた時代です。戦略次第では1979年初代フォルクスワーゲン「シロッコScirocco」に近い注目が得られたのでは、と思うのです。

その後セアトは1986年から段階的にフォルクスワーゲンの傘下となりました。以来フィアット時代の格安ブランドイメージと決別。代わりにスポーティーかつ若々しい独自モデルの投入で実績を積み、今日ではグループの主要1ブランドに成長しています。

やはり「スポルトがフォルクスワーゲン時代に生まれていたら」と考えてしまうのです。

デザインが秀逸であっても、さまざまな理由で忘れられつつある佳人薄命なモデルがあれば、これからも積極的に取り上げてゆきたいと考えています。それでは皆さん、次回までアリヴェデルチ(ごきげんよう)!

ジョエルさんのアルバムからもう1点。フロントフェンダーには、車体を製造したインドゥカー社の頭文字「IC」のバッジが。

ふたたびアルファスッド・スプリントと。同じ1970年代のウェッジシェイプであるが、2名のデザイナーのアプローチの違いがよく現れている。

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著者プロフィール

大矢アキオ ロレンツォ (Akio Lorenzo OYA) 近影

大矢アキオ ロレンツォ (Akio Lorenzo OYA)

在イタリア・ジャーナリスト。国立音大ヴァイオリン専攻卒業。京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)大学院 …