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DB7(1994-1999)
1987年、フォード傘下に
ゴーントレット体制下で様々な改革、挑戦を行い、再建への道を歩んでいたアストンマーティンに転機が訪れたのは1987年のことだ。
5月、クラシックカー・ラリーイベントのミッレミリアにマイケル・オブ・ケント王子と出場したゴーントレットは、パーティーで同席した元フォード副社長のウォルター・ヘイズと意気投合。長年あたためていた「ヴィラージュの3分の2の価格で年間600台生産できるアストンマーティン」というアイデアを披露する。
そこに商機を感じたヘイズは後日、友人でもあるヘンリー・フォード2世にアストンマーティンの買収を進言。1987年7月に75%の株式を取得し、アストンマーティンはフォード傘下に収まることとなった。
フォード傘下でもCEOとして残ったゴーントレットは早速、新世代アストンマーティンとしてDP1999の開発を遂行。プロジェクトは1990年にアストンマーティンのCEOとなったヘイズに引き継がれ、1993年のバーミンガム・ショーで「DB7」として結実する。
基本コンポーネンツを「ジャガー XJS」から流用
このDB7開発にあたり大きな力となったのが、1989年にフォード傘下となったジャガーの存在だ。というのもコストの削減と開発期間の短縮を目的に、ヘイズがエンジン、シャシー、サスペンションなどの基本コンポーネンツを「ジャガー XJS」から流用することを決断したからだ。
そしてその舵取りを任されたのが、グループAやグループCでジャガーのワークス活動を行い、スーパースポーツカー「XJ220」の開発、製造も担当した経験を持つTWRだった。ちなみにTWR代表のトム・ウォーキンショーは、チームオーナー兼ドライバーとしてヨーロッパ・ツーリングカー選手権にXJSで出場。1984年にはシリーズ・チャンピオンを獲得した経歴の持ち主で、その当時からXJSのシャシー・ポテンシャルの高さに注目していたDB7の開発には打ってつけの人物といえた。
ウォーキンショーは、XJ220の製造を終えたばかりのオックスフォードシャー・ブロッサムの工場に生産設備を構築。「ジャガーXJ40」用の3.2リッター直6DOHC“AJ6”ユニットをベースに、TWR設計の4バルブヘッドと米イートン社製のルーツ式スーパーチャージャーを装着することで、最高出力340PSを発生する専用エンジンを開発する。
一方のスチール製のプラットフォーム、前後ダブルウイッシュボーンのサスペンションなどは基本的にXJSを踏襲していたが、スチール製のボディはフォード・ギアからTWRへ移籍して間もない、40歳のイアン・カラムに委ねられた。
後のアストンデザインの基本形
カラムはコストなどの制約が多い中で「マツダ ファミリア アスティナ」のテールライト、「マツダ ファミリア ワゴン」のドアハンドル、「シトロエン CX」のドアミラーなど、各部に流用パーツを使いながら、「DB4GTザガート」や「DB5」など往年のモデルのエッセンスを上手くモダナイズした、美しい2ドアクーペボディをデザイン。その後のアストンマーティンデザインの基本形を作り上げることに成功した。
発表直後こそ、ジャガー・ベースであることを揶揄する声も聞かれたが、モダンで美しいスタイルと高い品質を持つDB7は、多くのユーザーに好評をもって迎えられた。そして1996年には、待望のオープントップボディを持つ「DB7ヴォランテ」も登場。クーペ、ヴォランテともに北米市場を中心に好調なセールスを記録し、アストンマーティンの生産台数は飛躍的に向上することとなる。
そしてこのDB7の成功を受け、ジャガーでは同じくXJSをベースとした「XK8」の開発がスタート。そうした意味でもDB7は、低迷気味だったブリティッシュGTシーンに新たな風を吹き込む、救世主的存在となったのである。