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創業当時は存在しなかった「クレスト」
1948年当時、ポルシェ製スポーツカーには「Porsche」の文字のみが配されていた。当時の言い伝えによると、このアルミニウムのエンブレムは見習い工が、ジグソーパズルを使って作ったもので、オーストリアのインスブルックで開催されたロードレース「ホーフガルテン」で初優勝を飾ったポルシェ356 No.1 ロードスターのためにデザインされている。
ただ、ポルシェを象徴するシンボルマークの採用は、幾度となく浮上しており、1951年3月、シュトゥットガルトの医師で熱烈なポルシェマニアだったオットマール・ドムニック博士とポルシェは、ドイツの美術学校で、新たなロゴマークのデザインコンテスト「ポルシェ・プライズ(Porsche Prize)」を開催した。
優勝者には1000ドイツマルクが進呈されることになっていたが、残念ながらどのデザインもフェリー・ポルシェの琴線に触れるものではなく、採用には至らなかった。
シュトゥットガルトの紋章をあしらったクレスト
1951年末、ホフマン・モーター・カンパニーのオーナーだったマックス・ホフマンは、ニューヨークでフェリー・ポルシェと会食し、アメリカにおいてポルシェの人気を確立するためには、カスタマーの視覚に訴えるシンボルマークを作り出す必要性を訴えた。
フェリー・ポルシェは、12月27日にこの時のことを記している「ステアリングホイールには『Porsche』とシュトゥットガルトの紋章、またはそれに類するものをあしらう」と。
ドイツへと戻ったフェリー・ポルシェは、デザイナーのフランツ・クサヴァー・ライムシュピースに、ポルシェのルーツと製品を象徴する商標デザインを依頼。ライムシュピースがクレストの初期デザインを作成し、細部にわずかな変更が施されたものの、このデザインは現在に至るまで受け継がれている。
黄金の盾の輪郭で縁取られ、中央にシュトゥットガルト市の公式紋章の馬を配置したクレストは、その周りをヴュルテンベルク・ホーエンツォレルン州の伝統的な紋章に由来するスタイリッシュな鹿の角が囲む。ポルシェは自動車だけでなく、レターヘッドや広告、出版物などでもこの印象的なクレストを使用した。しかし、ロゴマークは賛否両論を巻き起こすことになる。
複雑なデザインのロゴへの反発
1950年代、カラー印刷は非常に高価であり、工程もかなり複雑だった。すべての印刷業者が適切な色を印刷できる機械を持っていたわけではなかった。そのため、すべての版が正確に重なり、ロゴマークを正確な色と形で表現するのが、非常に困難だったのだ。
また、ポルシェのクレストは、白黒バージョンだとカラーほどエレガントには見えなかった。1961年、ポルシェのセールスマネージャーとディーラー組織は、ポルシェの広告部門責任者だったヘルマン・ラッパーに書簡を送る。
「異なる色と多くのディテールを持ったクレストは、道路走行中に印象的な視覚効果を持たない」と。この時、メルセデス・ベンツのスリー・ポインテッド・スターと、フォルクスワーゲンのシンプルなロゴマーク(これもライムシュピースのデザイン)が、優れたデザイン例として提示されている。
ボツになったポルシェの新ロゴ案
これを受けて、デザイナーのハンス・ローラーの主導で様々なデザインが生み出されることになった(この記事のメインカット)。天才的なコマーシャルアーティストだったローラーは、1950年代から1960年代にかけてポルシェにおいて多くのポスターや広告を手がけている。
新たなロゴは、ポルシェ356の後継モデル「T8プログラム」とともに発表される予定だった。しかし、このプロジェクトは進展することはなかった。この計画の存在を後の世に伝えるのは、秘書を務めていたギスラン・ケイスによる記録のみ。当時、ポルシェがどのような取り組みを行っていたかを示す証拠は、ポルシェのアーカイブには残されていない。
1952年から使われてきたクレストは、1960年代の段階ですでに定着しており、突然の方向転換は得策ではないという判断が下されたのだろう。しかし、今となってはこれも推測に過ぎない。
かつてフェリー・ポルシェは、オットマール・ドムニックから、ポルシェのクレストは、馬を擁するロイター・コーチビルダー社のロゴに似すぎているとの指摘を受けた際に「すでにポルシェのロゴとして定着している」と、主張した。かくして、クレストは6度のデザイン変更を受けながら、今もポルシェ製スポーツカーで輝き続けているのである。