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DBS / DBS V8(1967-1972)
青写真は新設計V8エンジン搭載のGT
1958年に生まれた「DB4」が1960年代のアストンマーティンを支えたように、1963年頃からチーフエンジニアに昇格したハロルド・ビーチとタデック・マレックは、1970年代を担う次期モデルの開発をスタートした。
そこで描かれた青写真は、直列6気筒DOHCに代わる新設計のV8エンジンを搭載したGTであった。それを受けマレックはオールアルミ合金製の5008cc 90度V8 DOHC DP218型ユニットを開発。ルーカス製の燃料噴射装置を備え、480PS以上を発生したこのエンジンはレーシングコンストラクターのローラとのジョイントにより、当時の最新鋭グループ5マシン、ローラ T70 Mk3に搭載され1967年のスポーツカー選手権にワークス参戦することが決定。レースの場で熟成が図られることになった。
4月に行われたル・マンのテストデイでいきなり総合3位、ウエット路面では1位のタイムを記録したローラ・アストンマーティンは、続く5月のニュルブルクリンク1000kmではジョン・サーティースとデイヴィッド・ホッブスが予選2位を獲得。決勝では7周目にリヤウイッシュボーンが折れてリタイアとなってしまったが、そのポテンシャルの高さには大きな期待が寄せられた。
しかし6月のル・マン決勝を迎えると、様々な不備に加え、DP218ユニットの根本的な耐久性不足が露呈。スタート後わずか3周でサーティース/ホッブス組のエンジンのピストンに穴が開いてリタイアしたのに加え、25周でもう1台のクリス・アーウィン/ピーター・デ・クラーク組のマシンのクランクシャフトにもクラックが入り、早々にリタイアとなってしまったのだ。
破綻したローラとのジョイント
これでローラとアストンマーティンとのジョイントは破綻。さらにこのDP218をデチューンしたエンジンを新型GTに搭載しようとしていたアストンマーティンの計画も大幅な修正を強いられることとなった。
一方、ビーチ設計によるシャシーの準備は順調に進んでいた。彼はDBシリーズの経験をもとに、ホイールベースをわずかに伸ばして2610mmとすると共に、フロントトレッドを128mm拡大して1500mmに、リヤトレッドも141mm拡大して1500mmにした。これにより全幅は1830mmとDB6より154mmも拡大したが、一方で全長は4580mmと40mm以上短縮されている。
サスペンションではラゴンダ・ラピードで初採用したトレーリングアームとワッツリンクからなるド・ディオン・アクスルをリヤに採用。バネ下重量を軽減した上で、対地キャンバー角変化を抑え、乗り心地とロードホールディング性を向上させるというビーチの念願が叶うことになった。さらにボディデザインはローバー時代にガスタービンエンジンのル・マンカー、ローバーBRMをデザインした後にアストンマーティンに移籍したウィリアム・タウンズが担当し、これまでとは一線を画す4灯ヘッドランプをもつモダンで直線的なスタイルへと生まれ変わった。
1967年のロンドン・ショーでデビュー
結局、V8エンジンの開発が延期されることが決まり、余裕のあるエンジンコンパートメントには見慣れた3基のSUキャブレターが付いた4.0リッター直6DOHCが納まることになった。
こうして1967年のロンドン・ショーでお披露目されたのが「DBS」である。デビューと同時に3基の2インチSUを備えるスタンダードに加え、3基のツインチョークウェーバーを装着し330PSを発生するヴァンテージも用意されたが、DBSではオープンモデルのヴォランテはラインナップされずに終わっている。
その後1969年10月に待望の5.3リッターV8DOHCを搭載した「DBS V8」を発表。さらにDBSのシャシーをベースに4ドア化されたラゴンダも試作され、アストンマーティンは新たな時代を迎える準備を進めていくことになるのだが、その続きは次回お伝えすることにしたい。