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AMV8 / V8 / V8 VANTAGE(1972-1989)
あっさりと幕を閉じたブラウンの黄金期
ローラT70に搭載され、醜態を晒すことになったタデック・マレック設計の5.0リッターV8DOHC DP218ユニットは、脆弱なシリンダーブロックを中心に大幅な補強が施されるとともに排気量を5340ccへと拡大。ボッシュ製の機械式燃料噴射装置を装着してDBSのシャシーへと搭載され、最高出力330PSを発生するDBS V8として1969年10月に発表された。
V8エンジンを得て性能的には一線級のGTへと返り咲くことができた「DBS V8」だが、英国内の不況によりデイヴィッド・ブラウン・グループの業績が悪化したのを受け、1972年にデイヴィッド・ブラウンはアストンマーティン・ラゴンダ・リミテッドとデイヴィッド・ブラウン・トラクターの売却を決断。2月16日にウィリアム・ウィルソン率いる投資会社、カンパニー・ディベロップメンツにわずか101ポンドで売却され、あっさりとブラウンによる黄金期は幕を閉じた。
ここで会社を早期に立ち直らせ、フォードへ売却することを目標としていたカンパニー・ディベロップメンツは、中身は変わらないものの、エクステリアを2灯ヘッドライトのフロントマスクにリデザインし、インテリアにレザーを多用して豪華に仕立てた「AMV8」を発表。さらにAMV8のボディに旧来の4.0リッター直6を搭載した“廉価版”のAMヴァンテージを発売した。
事実上倒産状態から会社の所有権は転々と
しかし実質的に中身は変わらないものの、価格が7000ポンドから9000ポンドに跳ね上がったAMV8と、ヴァンテージを名乗りながら性能の劣るAMヴァンテージの販売は不調。加えてカリフォルニアの排ガス規制をクリアできず北米への輸出が止まったことで経営状況は急激に悪化する。結果、アストンマーティンは1974年に全モデルの生産を中止し、管財人の管理下に置かれる事実上の倒産状態へと陥ってしまう。
ここでアストンマーティンを救ったのが、アメリカ人のピーター・スプラーグとカナダ人のジョージ・ミンデン、そしてアストンマーティン、ラゴンダのエンスージアストでもあったアラン・カーティス、デニス・フラザーという4人の実業家であった。彼らはカーティスを会長に据え、共同経営という形で1975年9月にアストンマーティン・ラゴンダ・リミテッドを再始動させた。
彼らはまず、カンパニー・ディベロップメンツ時代の1973年に北米の排ガス基準に適合させるために、不評だったボッシュ製燃料噴射は4基のツインチョーク・ウェーバー・キャブレターに変更したAMV8シリーズ3を、そのまま「アストンマーティンV8」と名称を変えて販売。1977年には大きく膨らんだボンネットバルジの下に4基の48IDF2 / 100キャブレターを装着し、395PSを発生するV8ユニットを搭載した高性能版の「V8ヴァンテージ」を追加する。そして1978年には北米市場のリクエストに応え、オープンの「V8ヴォランテ」を発表した。
その後V8は1978年に、ウッドパネルやレザーを多用したオスカーインテリアを採用し、パワーバルジ付きのボンネット、スポイラー一体型のトランクリッドを備えたV8シリーズ4へと進化するが販売は好転せず、共同経営者として残っていたカーティス、スプラーグそしてミンデンは、1981年に経営権をペース・ペトロリアムの創業者で、アストンマーティンのエンスージアストとしても知られるビクター・ゴーントレットへ売却する。
ボンドカー復帰を手土産にフォードへ
ゴーントレット体制下のアストンマーティンは、様々な投資家の出資を仰ぎながら、チューナーのテックフォードを傘下に納め、グループCのニムロッド・アストンマーティン・プロジェクトを開始するなど、いくつかの成果をもたらすが、大きな変化のない市販車の販売は低迷し、1982年には年間生産台数30台という状態にまで落ち込んでしまう。
ゴーントレットは1983年にペース・ペトロリアムを売却。自身の保有するアストンマーティンの株も売却して再建に務めたが、ザガートとの関係復活、そして1987年公開の『007/リビング・デイライツ』にV8ヴァンテージをボンドカーとして復帰させることを手土産にアストンマーティンをフォードへ売却。1990年までCEOを務めたのち、ウォルター・ヘイズにその座を譲り勇退した。
一方、V8は1986年にウェーバー・マレリのインジェクション・システムを備えたシリーズ5へと進化。1989年10月まで生産され、DBS V8から続く長い歴史に幕を閉じた。その間の総生産台数は4021台と言われている。