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Concorso d’Eleganza Villa d’Este
若者の支持を獲得したディアブロ
「コンコルソ・ヴィラ・デステ」は歴史を1929年に遡り、ヒストリックカー界では米国ペブルビーチと並び、世界で最も権威あるコンクールと称されている。1989年からBMWグループが後援。2005年からはBMWグループのクラシック部門が招待日の会場であるグランドホテル・ヴィラ・デステと共催している。
2024年は51台の参加車が、例年どおり8クラスに分かれて審査を受けた。最古は「ロールス・ロイスの120年記念」クラスに参加した1914年型「シルバーゴースト」で、同車は「最も美しいロールス・ロイス」賞を獲得した。
対して、最も若いモデルは1999年型「ランボルギーニ ディアブロ GT」だった。80台製造されたGTバージョンのうちの6台目で、チタンシルバーの外装+青のアルカンターラ内装は唯一の組み合わせであるという。こちらは一般公開日の若者投票による人気賞を獲得した。
王女はパープルがお好き
元ピニンファリーナR&D社長のロレンツォ・ラマチョッティ以下計13名の審査員団が今回選んだベスト・オブ・ショーは、1932年型「アルファ・ロメオ 8C 2300スパイダー」だった。8C用としては10台しか造られなかったフィゴニ社製スパイダーボディをもつ。1937年に父親から海軍士官学校の卒業祝いとしてこのクルマをプレゼントされたオーナー、アンリ・ドーシャンは、第2次世界大戦中にアジア方面任務に従事。以来、彼が98歳を迎えるまで77年間にわたり、ごく一部の機会を除いて秘匿されていたという数奇な車歴をもつ。
前述のディアブロが参加したのは「スピードへの渇望──ビデオ世代のスーパーカー・スターズ」と名付けられたクラスで、なかでも異彩を放っていたのは、同じランボルギーニの「カウンタック LP400」だ。1976年にサウジアラビアのサウード家王女のために造られた車両で、オーダーしたのは彼女の新郎であった。車体色は、王女が好きだったパープルViola Salchiにペイントされた。限られた後方視界を補助するスリットとミラーが装着された僅か157台の「ペリスコピカ」仕様だ。
彼らが滞在していた米国で納車されたものの、その後サウジアラビアに運ばれた。後年、購入した王家の御用エンジニアによって、ふたたび米国に戻され黒に塗装されるが、2019年にオリジナルカラーに戻されて現在英国のオーナーのもとにある。このカウンタックは世界的テノール歌手でBMWアンバサダーのヨナス・カウフマンが選者を務める「ベスト・エンジンサウンド賞」を獲得した。
常連ゲストが驚いた
招待日の参加者投票による「コッパ・ドーロ・ヴィラ・デステ」に輝いたのも、実は「ビデオ世代」カテゴリーに参加した1995年型「マクラーレン F1 ロードカー」だった。シャシーナンバー43のこの個体には、今日も日本のナンバープレートが装着されている。というのは、当時オーダーしたのは男性専門で知られる「上野クリニック」の経営者だった。
グレーのツートーンカラーも彼の選択で、同時代のメルセデス・ベンツSLに合わせたものだったという。上野クリニックは1995年ル・マン24時間でマクラーレンF1 GTRワークスマシン 1台のスポンサーを引き受けた。経営者氏はその塗装を、自身のロードカーと同じツートーンにしてほしいと要望。同時にレーシングドライバーとして関谷正徳氏のシートを確保した。同マシンはマクラーレンに初のル・マン優勝をもたらすとともに、関谷氏は日本人初のル・マン・ウィナーとなった。バレードでもそうした背景が、司会でヒストリックカー・エクスパートのサイモン・キッドストンによって解説された。
コンペティション用も含め僅か106台の希少車種とはいえ、1990年代のスーパーカーがベスト・オブ・ショーと並ぶコッパ・ドーロを獲得したことは、常連ゲストたちにとってそれなりに衝撃的だったようだ。だが考えてみれば、その車齢は29年である。仮に今が第2次世界大戦後第1回の1947年とすると、1918年の車に相当する。ヒストリックカーの定義は、着々と変化しているのである。
REPORT/大矢アキオ ロレンツォ(Akio Lorenzo OYA)
PHOTO/大矢麻里(Mari OYA)、大矢アキオ ロレンツォ(Akio Lorenzo OYA)