歴史から紐解くブランドの本質【マツダ編】

マツダがワクワクするブランドを目指すきっかけとは?【歴史に見るブランドの本質 Vol.20】

自動車メーカーは単に商品を売るだけではなく、その歴史やブランドをクルマに載せて売っている。しかし、イメージを確固たるものにする道のりは決して容易ではない。本連載では各メーカーの歴史から、そのブランドを考察する。

社名はアフラ・マズダにも由来

マツダは1920年に設立された東洋コルク工業がその母体である。東洋コルク工業はコルク製品を製造していた広島の個人経営の会社が経営難に陥った際、広島財界の名士が集まって株式会社化したものである。その名士の一人が松田重次郎だった。重次郎はその2代目の社長に就任する。

しかし1925年、工場が火災に遭い焼失してしまう。その再建に際し、重次郎は従来のコルク生産に加え、機械製造も始めることとし、社名を東洋工業と改める。当初は海軍関連の機械部品の製造が主だったが、独自の製品開発を模索し始める。そして目を付けたのが自動車だった。当初は自動二輪車の開発に着手するが、より大きな需要を見込めた3輪トラックの開発に集中するようになる。

東洋工業はエンジンから車体まで一貫した生産を目指した。1930年に試作車が完成、翌年から量産を開始した。車名はマツダDA型と名付けられた。マツダの名はもちろん社長の松田が由来だが、ゾロアスター教の神アフラ・マズダとも重ね合わせたためアルファベット表記はMAZDAとしたのである。

ロータリーエンジンを象徴として

3輪トラックは順調に販売を伸ばしたが、第二次世界大戦で軍需生産にシフトせざるを得なくなる。原爆で甚大な被害を受けた広島であったが、終戦の年の12月には3輪トラックの生産再開に漕ぎ着ける。1950年には4輪トラックの生産を開始し、1960年には念願の乗用車の生産に乗り出す。最初の市販車はR360クーペというスタイリッシュな2+2の軽クーペであった。R360は当時の軽自動車としては唯一の4ストロークエンジンを搭載していた。

翌1961年にはバンケル社とロータリーエンジンに関する技術提携を行い、1967年にコスモスポーツとして結実する。他社がロータリーエンジンの開発を諦める中、マツダは世界で唯一ロータリーエンジンをものにした会社となった。ロータリーエンジンはマツダを象徴する技術となった。

デザイン面では1962年にベルトーネと提携することでスタイリッシュなファミリアやルーチェといったモデルを産んだ。このようにマツダは独自技術を持ったスタイリッシュでスポーティなブランドとなっていく。

フォード傘下時代を経て

その後もRX-7、BD型ファミリア、ロードスターなど、マツダらしいスタイリッシュでスポーティな車を次々生み出すが、構造上燃費が悪いロータリーエンジンは石油ショックで逆風となり、また無理な販売チャネル拡大政策により経営は悪化し、1996年に実質的にフォード傘下に入り、社長もフォード出身者となった。

フォード傘下で不明確になっていたブランドイメージを明確化することになった2001年に創り出されたのが、「zoom-zoom」というキャッチフレーズである。zoom-zoomは英語の子供言葉で「ブーブー」といった意味で、マツダは運転してワクワクさせる車をつくるブランド、と定義したわけだ。この定義によってマツダの車作りは一本筋の通ったものとなっていったのである。

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著者プロフィール

山崎 明 近影

山崎 明

1960年、東京・新橋生まれ。1984年慶應義塾大学経済学部卒業、同年電通入社。1989年スイスIMD MBA修了。…