駅で「おばけ」が出現!?業界ならではの嬉しい悲鳴

タクシー運転手たちの間で話される隠語。

「おばけ」とは、タクシー運転手たちの間で思いがけず遭遇した長距離客のことを指す隠語だ。

例えば深夜の繁華街で、「〇〇駅はおばけが出る」といった会話が無線で交わされることがある。これは幽霊の出没ではなく、「意外な場所と時間に現れ、高額運賃をもたらす遠距離利用客」を意味する合図である。

運転手にとって滅多にない幸運な出来事で、まさに“幽霊のように珍しい”ことからこの名が付いたという。乗務中に数万円規模の売上となる乗客に巡り合えば、運転手が「おばけが出た!」と無線で報告するのも無理はない。

実際、メーター料金で10,000円超えにもなるような長距離客は業界では“大当たり”とされ、他のドライバーから羨望の的になる。思わず隣の運転手も「うらやましい」と感じるほどのこの「おばけ」だが、もちろん乗客には全く害のない、運転手だけがこっそり喜ぶ嬉しい悲鳴なのだ。

一方、長距離の「おばけ」と対照的に近距離の乗客を指す隠語も存在する。業界では短距離利用の客を「コロ」と呼ぶことがある。語源は定かでないが、「タイヤがコロコロ転がった程度の距離」という例えに由来する説があり、走行距離の短さを表現した言葉だ。

同様に「ちょこっと乗る客」というニュアンスから「ちょんこ」という隠語も使われてきた。距離が短ければ運賃も低く、売上への貢献度が小さいため、どうしても“はずれ感”がつきまとう。さらに、かつて初乗り料金が530円だった時代には、「530(ゴミ)」という語呂合わせから、ワンメーターの超短距離客を指す隠語として「ゴミ」という言葉が一部で使われていたこともある。

もちろん、乗客をぞんざいに扱う意味ではない。だが、厳しい売上ノルマと時間制限のなかで働く運転手たちにとって、思うように稼げない乗車が続くと、つい本音が言葉に出てしまう。それが「ハズレ」などといった、聞こえは悪いが正直な感情の現れとして口をつくのだ。

こうした隠語には、「長距離であってほしかった」という運転手の正直な嘆きが込められているのだ。

なぜ隠語が生まれたのか?秘密の言葉の背景

これほど多彩な隠語がタクシー業界で発達した背景には、無線連絡の必要性がある。タクシー運転手は日常的に社内無線で配車センターや同僚とやり取りをしており、その会話は乗客の耳にも届いてしまう。走行中に個別の電話連絡をするわけにもいかないため、乗客に内容を悟られないよう暗号化した表現が使われるようになったのである。

タクシー業界では、多彩な隠語が発達していった。

例えば、警察の取り締まり情報を共有する際には「工事中」(取り締まり中)や「パンダ」(パトカー)といった隠語が使われる。さらに、事件性のある情報を伝える際には「大きな忘れ物がありました」といった含みのある言い回しで知らせることもある。これは、犯人逃走中などの状況を乗客に悟らせず、ドライバー同士だけで警戒を共有するための手法だ。

加えて、無線は不特定多数の車両で共有されるため、私語や過剰なやり取りは電波法上のリスクも伴う。限られた電波空間の中で、簡潔に、かつ誤解なく伝えるには、記号化された共通語が都合が良かったという側面もある。

さらに、こうした隠語の多くには、ユーモアや仲間意識を育む効果もあった。例えば「20(にじゅう)」は、「ヤクザ(8・9・3)」の数字の合計に由来し、荒れた客への注意信号として使われる。「ワカメ」は“海藻=回送”というシャレで、回送車のこと。「ゾンビ」は深夜の繁華街でタクシーを探してさまよう人波を表現したものだ。

一見すると軽口のようなこれらの言葉も、限られた状況で情報を共有するための工夫と、過酷な労働環境を乗り越えるための心の遊びから生まれている。

変わりゆく隠語文化、そしてこれから

近年は、タクシードライバー業界の隠語は減少傾向にある。

高度成長期から平成にかけて名付けられた数々の隠語も、時代とともに少しずつ姿を消しつつある。「おばけ」や「ゴミ」など、乗客を例える言葉は現代のサービス業の感覚では不適切とされ、会社によっては使用を控える動きも見られる。また、近年はタクシードライバーの若年化が進み、新人の多くはこうした古い隠語に馴染みが薄い。

スマートフォンによる配車アプリの普及、防犯カメラやドライブレコーダーの導入により、従来の無線連絡も大きく様変わりした。かつて横行したメーター不正「エントツ」もドラレコ導入で過去の遺物となり、隠語で警戒を呼びかける場面自体が減ってきているのが現状だ。

タクシー業界の言葉は、まさに過渡期にあると言えるだろう。だが、それは一方的な消失ではなく、移り変わりのなかで新たな語彙が生まれていく過程でもある。

10年後には、今はまだ存在しない別の隠語が当たり前のように使われているかもしれない。そして今も、タクシー乗り場では耳を澄ませば運転手同士の隠語が飛び交っている。タクシーを利用する機会があれば、耳を澄ませてみてほしい。運転席の向こう側から、聞き慣れない言葉が聞こえてくるかもしれない。