トヨタ2000GT、開発チームを奮起させた豊田英二副社長【TOYOTA 2000GT物語Vol.21】

1970年のセリカとカリーナのラインオフ式(堤工場)での豊田英二・トヨタ自工社長(左)と大西四郎・トヨタ自販副社長。
「試作費はいくらかかってもいいから、早くいいものを作れ。責任はすべて役員が持つ」と当時の豊田英二副社長ら役員の後押しを受けてスタートしたTOYOTA 2000GTの開発。
REPORT:COOLARTS

社員に“英二さん”と慕われた「トヨタ中興の祖」

トヨタ自動車工業の創業者、豊田喜一郎は日本の発明王・豊田佐吉の長男。

トヨタ自動車工業の5代目社長、トヨタ自動車の初代会長を務めた豊田英二は1913年9月12日、愛知県西春日井郡金城村(現・名古屋市西区)に生まれた。英二の父・平吉の兄は「世界の織機王」と呼ばれた豊田佐吉である。佐吉には英二より18歳年上の喜一郎(豊田自動車工業創業者)という息子がいたが、佐吉は甥の英二を可愛がったという。

英二は愛知県立第一中学校、第八高等学校を経て、東京帝国大学工学部機械工学科に入学。戦時中、海軍の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)などに搭載された栄エンジンの改良や誉エンジンの主任設計者を務めた中川良一(のちにプリンス自動車工業専務、日産自動車専務)と大学の同期だった。1936年に帝大を卒業した英二は日立への入社を蹴って豊田自動織機に入社した。

1950年6月、労働争議の責任を取って社長の豊田喜一郎が退陣。20日後に緒戦戦争が勃発したため、喜一郎の跡を継いで豊田自動織機製作所社長となった石田退三は、このときとばかりに常務取締役になっていた英二を勉強のため3ヵ月渡米させた。

帰国後、特需景気により自動車の買い注文が殺到。これに対し英二は生産設備近代化5カ年計画をまとめ、月産3000台にするという当時としては壮大な計画を打ち立てる。こうして1953年3月、39歳の英二は専務取締役に抜擢された。

英二には大きな計画を成し遂げる力量のほか、優れた技術者としての面もあった。のちにTOYOTA 2000GTのシャシー設計を担当した山崎進一は英二についてこう語っていた。「英二さんは、何か納得できないことがあると、真っ白なワイシャツが汚れるのも構わず、クルマの下に平気で潜られたりする、根っからの技術者でした」。

ある時、専務の英二が現場に現れ、図面を見て「それ、なんじゃい」と訊ねてきたという。「今、コロナRT40型のリアアクスルの軽量化を検討しています。シャフトの太さやベアリングの外径を小さくしようと思います」と山崎が答えると「あっ、そうか」と言葉を交わして帰っていった。

3日後、薮田東三取締役が「あれ、面白そうだから軌道に乗せろと英二さんから言われたよ」と山崎に話したという。英二は図面が読める経営者であり、技術者でもあったのだ。

土日でも下駄ばきでテストコースに一人で現れた

1965年に建設された上郷工場は、エンジンを生産している。

1964年8月。副社長となっていた英二をはじめとする役員にTOYOTA 2000GTの基本計画が河野二郎主査から提出された。それに対し役員に対し役員から河野に伝えられたのは、「このプロジェクトは河野に全権委任。試作費はいくらかかってもいいから、早くいいものを作れ。責任はすべて役員が持つ」というものだった。

9月より、河野主査が提示したコンセプトに沿ってTOYOTA 2000GTの基礎研究が開始された。スタッフが1枚の全体計画図に描いていく。作図するための狭い部屋は豊田市の本社技術部2階にあり、そこにも英二の変わらぬ姿があったという。

「英二さんは予告もなく一人でひょっこりやって来ました」と開発スタッフの一人は語っていた。

英二は土日でも、社内のテストコースに一人で現れた。しかも下駄ばきで走行テストを見守っていたという。そんな英二を当時の現場の社員たちは会社での「父親」と感じるほどに慕っていた。

「あの方には、肩書なんて関係なかったのです。英二さんは英二さんでした」とある関係者。たとえ副社長であっても、偉ぶらない英二は社員に対してどこでも気さくに話しかけていた。

1967年5月、TOYOTA 2000GTを発売。その直後の10月にトヨタ自工の社長を務めていた中川不器男が急逝したため、副社長だった英二が社長に就任する。英二は新型車生産のため、上郷、高岡など8つの工場を次々と建設。現在のトヨタにつながる低コスト、高効率の国内生産体制を確立していった。

「黙して語らず」を地でいく英二だったが、レースに関してはこんな発言をしている。1968年5月の日本グランプリ予選の日、シボレーエンジンを搭載したニッサンR381が上位を独占し、トヨタの最上位は6位に甘んじた。

チーム・トヨタのキャプテン細谷四方洋は社長の英二に「メルセデスのエンジンでも買って積んでほしい」トヨタ7の3ℓエンジンの非力さを嘆いた。すかさず英二は「シャシーとエンジンを作ってこそメーカーだ。トヨタはタイヤとガラスを除いてすべてを自前で作るんだ」とキャプテンをきつく諭した。それは、かつて豊田喜一郎が唱えた「国産技術至上主義」でもあった。

副社長時代にはTOYOTA 2000GTのプロジェクトを推進させ、1967年から1982年までのトヨタ自工社長時代、コロナ・マークⅡ、セリカ、カリーナ、

スターレットなど新型車を次々と市場に投入、現在の量産体制の基礎を築いた。日本モータリゼーション黎明期の華やかかりし頃、豊田英二が日本人に夢を与えた功績はとてつもなく大きい。(文中敬称略)

1982年3月のトヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売のいわゆる「工販合併」調印式。左から自工の花井正八会長、豊田英二社長、自販の加藤誠之会長、豊田章一郎社長。ちなみに豊田章一郎社長は、現在の豊田章男・トヨタ自動車社長の父。

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