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商業的に成功を収めたモデルAだが
モデルTのように市場を席巻するまでには至らず
1927年12月2日に発表されたフォード・モデルAは、上級モデルのリンカーンを彷彿とさせるスタイリング、パワフルな新開発の3.3L直列4気筒サイドバルブエンジン、新設計のシャシーとフォード初の油圧式ショックアブソーバーの組み合わせによる優れた乗り心地、そして、4輪ドラムブレーキ、安全ガラス、セルフスターター、燃料計、バックミラー(オプション)などの充実した装備により、当時の水準を超える大衆車として世に送り出された。
フォードの大衆車を製造していたリバー・ルージュ工場の閉鎖から約半年。人々は19年間という長きに渡って生産が続けられたモデルTの後継車がどのような姿になるのか固唾を飲んで待っていた。そんな大衆の期待に応えるべく満を持じて登場したモデルAは、期待以上の仕上がりとなっており、人々から喝采を持って迎えられた。同車登場のインパクトは非常に大きなもので、その年のアメリカ10大ニュースのひとつに選ばれたほどだった。
最終的にモデルAは4年間で500万台以上も生産され、商業的には成功を収めた。しかし、生産設備の遅れから工場のフル稼働が1929年中頃までずれ込み、ようやく生産体制が整ったタイミングで発生した世界恐慌により新車需要が激減してしまう。
さらには1929年にGMが発表したシボレー・シリーズACインターナショナルが強力なライバルとしてモデルAの前に立ち塞がったことも販売面で少なからぬ影響があった。このクルマはモデルAとほとんど変わらない価格でありながら、高性能な3.18L直列6気筒OHV「ストーブボルト」エンジンを搭載していたのだ。
こうした状況に対し、ヘンリー・フォードのひとり息子であり、フォード社長だったエドセルは、熾烈さを増す販売戦を制するための切り札として、当時高級車のみに与えられていたV型8気筒エンジンをモデルAの後継車に搭載することを画策する。
そして1932年4月1日に発表されたのが、のちに「DEUCE(デュース)」の愛称でファンから親しまれることになる1932年型モデルB (正確には直4搭載車をモデルB、V8搭載車はモデル18の名称が与えられているが、今日では一般的に両車をひとまとめにしてモデルBと呼称することが多い)であった。
エドセルの切り札! 史上初のV8エンジン搭載大衆車・モデルB
モデルBのメカニズムにおける最大のトピックスは、シリンダーヘッドにバルブを持たないサイドバルブエンジンの独特な形状から「フラットヘッド」の愛称を持つ、新開発の3.6L V8エンジンの採用にあった。
シリンダーの数が増えれば、さらなる最高出力を求めることができるとの単純明快な考えで生まれたこのパワーユニットは、最高出力はモデルAの直4エンジンから25hp増しの65hpを発揮し、最高速度は122km/hにも達した。
じつはフォードが大衆車にV8エンジンを搭載することはモデルAの開発時にも一度は検討されたものの、開発時間とリソースに余裕がなかったことから時期尚早として見送られた経緯がある。だが、生産責任者のチャーリー・ソレンセンの手記によると「1929年にソビエトからモデルAのプラント購入の申し出を受けた際に、設計中だったV8も一緒に売り込むつもりでいた」とあることから、この時期にはすでに開発作業が始まっていたことになる。
大衆車に高度なメカニズムであるV8エンジンを搭載する上で問題になるのが製造コストだが、ソレンセンと主任設計技師のローレンス・シェルドリックは、量産を前提にシリンダーブロックを一体鋳造で製造し、削り出しや鍛造に代えてダグタイル鋳鉄を用いたクランクシャフトを用いた設計を採用した。
従来のV8が5ベアリング構造であるのに対し、3ベアリング構造とした画期的な設計で、これらの設計の簡素化によりV8エンジンの単体ブロックの製造コストは、直4よりもむしろ安価に収まったという。
また、新エンジンの採用に併せてトランスミッション(3速MT)も改良を受け、セカンド(2速)とトップ(3速)がシンクロメッシュ化され、さらなるイージードライブ化が図られた。
シャシーも一新され、モデルAが直線で構成されたシンプルなものだったのに対し、モデルBは前方から後方へ向けてなだらかに弧を描くようになり、低床化のためにリヤアクスルが弓状に上方に突き出されている。ただし、前後のトランスバースリーフスプリング(横置き板ばね)を用いたリジッドアクスルをフルトルクチューブとラジアスロッドで受ける方式はそのまま踏襲されている(1948年までこの方式が使い続けられた)。
1928年型フォードモデルA(上)と1932年型フォード・モデルB (下)。モデルBはモデルAの改良型であり、エンジン以外ではグリルの形状とフレーム形状が識別点となる。よく見るとモデルBはボディ下端が前から後ろにかけてなだらかなカーブを描いているのがわかるだろう。なお、1933年以降のモデルBは縦型のグリルとなり、ホイールベースが延長された。こちらはグリルとボンネット上のルーバーの形状で識別が可能だ。
今日もでも愛され続ける、記録よりも記憶に残った名車・モデルB
モデルBは発表とともに世間の話題をさらった。シボレーの6気筒がなめらかで高級感のあるフィーリングであったのに対し、フォードのV8は独特のビートを刻みつつ電気モーターのようにスムーズに回転し、パフォーマンスはシボレーのそれを圧倒した。
販売価格はロードスターで495ドル(現在の価格で1万ドル弱)ほどと、モデルAよりも110ドル値上げされたが、これまでの直4や直6エンジンに飽きたらないユーザーはモデルBをこぞって買い求めた。モデルBにはモデルAの直4エンジンの改良型も用意されていたが、わずか10ドル追加するだけで高性能なV8が買えるということもあり、人気を集めたのはV8モデルとなる(ただし、ヨーロッパや日本、ソ連などのアメリカ国外の生産車は直4モデルが中心となった)。
モデルBの1932年型は28万6449台が生産された。評判の割に販売台数が伸び悩んだのは、エントリーグレードの直4エンジン搭載モデルの販売台数の売れ行きが振るわなかったことと、V8エンジンの生産プランの立ち上げの遅れ、さらには世界大恐慌(1929年)の影響による自動車市場の縮小が挙げられる。
しかしながら、モデルBに搭載されたV8エンジンは、パフォーマンスを求めるユーザーの心をガッチリ掴むことに成功したのだった。
改良を施されながら1934年まで製造が続けられる
モデルBの1933年型はエクステリアにリファインを加え、イギリスで生産されていた小型車のフォード・モデルYからインスピレーションを受けた盾型グリルを採用した。また、シャシーはXメンバーを追加した改良型のフレームが採用され、ホイールベースは153mm伸ばされて2845mmとなった。
搭載されるV8エンジンは、モデルイヤー後半から圧縮比の高いアルミヘッドと新型キャブレターが与えられ、点火系に改良を加えたことにより、最高出力は75hpへと向上している(改良型の正式な車名はモデル40と呼称される)。
1934年型はフロントグリルとボンネットルーバーの意匠をわずかに変更し、ヘッドランプが小型化された程度で外観上は大きな変更を受けなかった。さらなる加速性能を求める市場の要求に応えるかたちでV8エンジンに改良の手が加えられ、インテークマニフォールドは左右独立式になり、併せてツインキャブレターが採用されたことで、最高出力は85hpにまで向上している。
1934年型まで直4エンジン搭載車は設定されていたものの、販売の主力はすでにV8へと移行しており、フォードはこの年をもって直4モデルを廃止。大衆車用のエンジンをV8に一本化することを決定した。一般にモデルBに区分されるのは、直4エンジンの設定があったこの年までとなる。
モデルBのV8エンジンとシャシーは改良を受けながら16年間も存続
1935年型はモデル48と呼称され、重心位置を前方に移した「センターポイズ」と呼ばれるスタイリングを採用。ボディはワイド化されて、より流線形となった。
エンジンやシャシーなどの基本メカニズムはモデルBからキャリーオーバーされているが、さらなる改良により最高出力は90hpへとパワーアップされている。初期のフォード製V8は冷却性能や信頼性に若干の問題を抱えていたが、この頃になると地道な改良によりこうした問題はほぼ解消。これが販売面でもプラスに働いて、宿敵シボレーから販売台数首位の座を奪い返すことに成功する(同時にフォードにとっては最後の全米首位をとった年になった)。
以降、フォードはイヤーモデル制による1年ごとのマイチェンと2年ごとのフルモデルチェンジを繰り返すことになるが、トピックスとなるのは1936年型に新たにモデル68の名前が与えられたことと、1937年型で経済性を重視した小型の2.2L V8を追加(販売低迷により1940年に廃止)されたことくらいで、エンジンやシャシーなどの基本メカニズムは適時小改良が施されつつ1948年型まで使用が続けられた。
シボレーやプリマスなどのライバルが大衆車にV8エンジンを設定するようになるのは第二次世界大戦後のことである。それまでこのクラスでは、V8エンジンはフォードのお家芸として高い人気を保持し続けた。
時代はすでにヘンリー・フォードが理想とした「流行に左右されない実用的なクルマを末長く使い続ける」というものから、GM流の「最先端のトレンドや新技術をいち早く取り入れ、大量生産・大量消費で次々に新しいクルマに乗り換える」ことが当たり前の世の中になっていた。フォードもこうした風潮に完全に飲み込まれてしまっており、イヤーモデルごとに消費者の関心を買うようなスタイリングやメカニズムを取り入れ、派手な宣伝広告でそのことをアピールして買い替えを促進するようになった。
歴史に残る名車・モデルBとて、アメリカ人にV8信仰を根付かせた功績こそあれ、本来ならば消費社会で毎日のように行なわれるスクラップ&ビルドの繰り返えしのなかで、やがては歴史へと埋没するはずであった。だが、第二次世界大戦後になって若者たちはアーリーフォードとフラットヘッドV8エンジンの新たな魅力に気がつき、自分たちなりの楽しみ方を見つける。それがモデルBないしその心臓部を使用したHOTROD(ホットロッド)であった。