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機密保持のためお盆休みに搬入
1965年8月14日、今から57年前の旧盆の夏休み。誰もいない、当時のトヨタ自工本社にヤマハ発動機で完成したTOYOTA 2000GTの試作1号車が運び込まれた。ちょうどその年からトヨタ自工は一斉に連続して夏季休暇を取るようになっていた。社内でも極秘に進行していた本格的スポーツカーのプロジェクトだけに、この日に持ち込めば、より確実に機密保持ができるというわけだ。
マニアには有名な話なのだが、じつはこの試作1号車、市販されたTOYOTA 2000GTとはボディデザインと細部がいろいろと違っていた。
市販モデルとの相違点 ●リトラクトブル式ヘッドライトの形状 ●フロントフェンダーの盛り上がりの高さ ●フロントガラスの形状とフロントピラーの位置 ●ドアとリアフェンダーの間隔 ●ドアハンドルの形状(クラウンの部品を流用) ●サービスリッドのキーホール ●フロントグリルの形状 ●フロントウインカーの形状 ●フォグランプ枠の形状 ●3連ワイパー ●ワイヤーホイールの採用 ●ホイールスピナーの形状 ●マフラーの形状 など
チーム・トヨタのキャプテンを務め、TOYOTA 2000GTの開発ドライバーとして携わった細谷四方洋が当時の様子について語っていた。
「試作1号車を8月14日の午前中に、開発責任者の河野二郎主査と一緒に幌付きのトラックでヤマハまで取りに行きました。午後2時ごろトヨタに帰ってきて、待っていたカメラマンが記録写真を撮影しました。まず記録しておかないと、万一壊してしまったときに残りませんから」
記録写真撮影後、細谷は試作1号車に乗り込み、早速テストを開始。誰もいないテストコースを走り回ったという。その後、細谷による本格的なテスト走行が始まった。当時のトヨタ社内のテストコースは制限速度が低く、200km/h以上の高速走行が不可能だったため、高速試験は茨城県・谷田部にあった日本自動車研究所(JARI)の高速周回路など社外のコースが使われたという。
様々な状況でのテスト走行の結果、試作車の各部にはクラックや溶接の剥がれなどが確認され、貴重なデータが残された。通常、開発テストを終え、お役御免となった試作車は機密保持のためスクラップにして廃棄される運命にあるが、このTOYOTA 2000GT試作1号車には数奇な運命が待ち受けていた。
福沢幸雄がステアリング握っていたときに出火
西の鈴鹿サーキットに続く、日本で2番目の国際規格の本格的サーキットとして開業した富士スピードウェイで、1966年5月に第3回日本グランプリが開催されることが決まると、TOYOTA 2000GTの開発チームはこれに参戦することを目標に定め、開発を進めることを決定。
プロトタイプスポーツカーと戦うグランプリレースに向け、アルミボディのレース専用車「331S」2台製作し、さらにもう1台、試作車をベースとしたレース仕様を製作した。このクルマの出自こそが、試作1号車だったのだ。
アルミボディの331Sに細谷四方洋と福沢幸雄、スチールボディの試作1号車には田村三夫が乗ることになり、エントリーリストには3人の名前が記載された。しかし、日本グランプリを前にした富士スピードウェイでの直前テストで、思わぬアクシデントが発生した。
本番車の完成が遅れていた福沢は、田村が乗る予定の試作1号車を借りてトレーニングをしていた。ところが、走行中にコックピットがガソリン臭い。注意しながらコースを1周したが、ブリーザーから出るガスが車内に充満。危険を感じすぐにピットインしたものの、停車してエンジンのスイッチを切る時点でバックファイアの火が気化したガソリンに引火して燃え上がった。
運転していた福沢は危うく運転席から飛び出すも顔と肩にやけどを負い、燃焼性の高いマグネシウム製ホイールを履いたマシンは、ほぼ全焼してしまった。負傷した福沢は日本グランプリ出場の夢を絶たれてしまった。
日本グランプリの結果は、細谷の駆るアルミボディの赤いレース専用車331Sが3位入賞を果たす活躍。もう1台の田村の駆るシルバーの331Sは、コース内に飛んできた新聞紙がラジエターをふさぎ、オーバーヒートでリタイヤした。そして、事前テストで不運にも焼けてしまった試作1号車は、社内の片隅に放り出されて、赤サビだらけになっていたという。(続く)