トヨタ2000GT、開発チームを束ねた“偉丈夫”河野二郎主査 【TOYOTA 2000GT物語Vol.22】

TOYOTA 2000GTの開発責任者を務めた河野二郎主査。今回は、「世界に通用するスポーツカーを自分たちの手で作る」という、60年代のトヨタにとって未知の分野に漕ぎ出した人物について語ろう。
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試作1号車を自ら引き取りに行く開発責任者

左フロントフェンダーに設けられたサービスリッドにあるエアクリーナーにフレッシュエアを送るダクトは、フェンダーの峰の下にある空間に設けられた。

豊田章一郎に誘われてトヨタに入社

「威風堂々とした大柄な方でした」とチーム・トヨタのドライバーたちが異口同音に語ったのが、TOYOTA 2000GTの開発リーダーであった河野二郎主査。日本人離れした大柄な体格で、レースの時も冷静に事の成り行きを注視し采配する人物だったという。

河野二郎は1924年1月31日、名古屋に生まれた。名古屋大学時代、豊田章一郎(自販と工販合併後のトヨタ自動車初代社長)と同期で同じ自動車部に入っていた。在学中は、豊田家の長男と知らなかったというが、「うちの会社に来ませんか」という章一郎の誘いを受け、1947年トヨタ自動車工業に入社する。

河野は製品企画室に配属され、豊田英二の指揮の下、「国民車構想」の流れを汲む初代パブリカ(UP10型)の開発に携わっていた。当初、パブリカはFFで企画されていたが、トヨタでは初めての前輪駆動車ということもあり、駆動系にトラブルが続出。開発途中にオーソドックスなFRに変更され、1961年6月に発売された。

1963年5月に鈴鹿サーキットで「第1回日本グランプリ」が開催されると、各自動車メーカーはレースを格好の宣伝材料と考え、トップに立とうと必死になった。トヨタも河野に対し、「レースを担当するように」という辞令を下す。

レースの総責任者に就任し、TMSC(トヨタ・モータースポーツ・クラブ)の監督となった河野は、すぐヨーロッパにレース視察に飛び、モナコ、スパ・フランコルシャン、ル・マンなどを回った。そして、レースの本場であるヨーロッパのレベルの高さを目の当たりにする。

ヨーロッパとの差を痛感し河野は、帰国後にドライバーを集めることから始めた。当時、レース・コンサルタントを担当していた池田英三の助けを借り、まず「第1回日本グランプリ」パブリカを駆って3位になった細谷四方洋をトヨタ専属ドライバー第1号として契約する。

河野二郎が商品企画室で開発に携わっていたのが初代パブリカ。700ccの空冷・水平対向2気筒OHVエンジンを搭載していた。

開発チームを後ろから見守る

「本格的なスポーツカーを開発する。君も来ないか?」河野が開発チームのリーダーとなり、アメリカ帰りのデザイナー・野崎喩ら製品企画の若手に声を掛け、1964年9月、後のTOYOTA 2000GTとなる280Aプロジェクトを立ち上げた。まず、河野は大量生産を視野に入れず、仕上げの良さにこだわった高性能スポーツカーを製造するという基本コンセプトを策定した。その後、ヤマハ発動機との提携が実現し、1965年1月から開発チームはヤマハ発動機に駐在して突貫工事で開発が進む。

タッグマッチ方式で設計が進んだある日、エンジン担当者から「エンジンのエアクリーナーにフレッシュエアが来ない」と悲鳴が上がった。さまざまなアイデアを出しても一向に解決策が見つからない。

担当者たちのやりとりを後ろで腕組みしながら聞いていた河野が「エアクリーナーに入れるエアは、フロントフェンダーとインナーフェンダーの間を通したらどうだろう」と助け船を出した。フロントフェンダーの峰の下に「おにぎり」ほどの三角の空間があったのだ。後にデザイナーの野崎は、「それはまさに天の声であった」とこのエピソードを書き残している。

TOYOTA 2000GTの試作第1号車が完成したのは1965年8月14日。河野は待ちきれずに、ヤマハの工場にトラックで引き取りに行った。設計開始からわずか10カ月足らずのことだった。

試作車の完成後、直ちにテストを開始したが、悪路耐久テスト以外の走行テストはほとんどサーキットで行われたという。さらに、1966年5月の「第3回日本グランプリ」に参戦し3位入賞。実際のレースでTOYOTA 2000GTを鍛え上げて行ったのだ。「この間に得た技術的収穫は計り知れないものがあり、その開発速度も異常なほど急速であった」開発チーム自身が社内資料に残している。

そしてレースへの挑戦と成功が、1966年10月のスピードトライアルにつながる。「クルマをよくするためには何か目標が欲しい。それでその目標を作ったというわけです」と河野は世界スピード記録挑戦の目的を明かした。過酷なチャレンジの経験が、すべてフィードバックされ次々と改善が加えられていく。それは1967年5月に発売される生産車の完成度を高めることになった。

開発の責任を一身に背負った河野主査。開発チームの仕事をじっと見守り、レースでは若手ドライバーを積極的に起用しコントロールした。ある開発スタッフはこう語った。

「河野主査でなければ、TOYOTA 2000GTは完成できなかったかもしれない。開発チームにとってそれほど大きな存在でした」(文中敬称略)

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