今では大型車専業メーカーのいすゞだが、1950年代からイギリスのヒルマン・ミンクスをノックダウン生産する乗用車メーカーだった時代もある。ヒルマンの生産は当初パーツを輸入して国内で組み立てる製法だったが、徐々にパーツの国産化を進めて1957年には完全国産化を遂げている。これにより得た乗用車生産のノウハウを活かして、1962年には後継車のベレルを発売。さらに翌年となると、ベレルより小さなファミリーセダンとしてベレットを発売している。
ベレルは商業的に成功したとは言い難いが、1.5リッターエンジンのベレットは戦後復興を遂げつつある60年代の日本に合っていた。いすゞらしくディーゼルエンジンもラインナップされており、翌年には1.3リッターエンジンまで加わると販売にも勢いがつく。ベレットはフロントにウイッシュボーン式、リヤにダイアドナルスイングアクスルのサスペンションを備え、高い操縦安定性と楽しめるハンドリングを実現。これによりモータースポーツでも活躍することとなる。
64年には日本で初めて「GT」の名を冠するベレット1600GTが発売される。同時期にプリンスからスカGことスカイラインGTも登場していて、日本に本格的なスポーツモデルが根付くきっかけとなった1台でもある。このベレット1600GTはマニアから「ベレG」の愛称で親しまれ、優れたデザインとともに人気を博することになる。
その後ベレGはハンドメイドモデルであるファストバックを追加しつつ、何度かのフェイスリフトを経て排気量が1.8リッターにまで拡大された。この頃にはベレットのスポーツイメージが定着していて1.3リッターやディーゼルエンジンは存続していたものの、影が薄い存在になっていた。
そして69年、ベレットの最終進化形とも呼べるモデルが発売される。それが1600GTRで発売直前の鈴鹿12時間耐久レースで優勝を遂げたベレットGTXと同じDOHCエンジンを搭載していた。このG161W型エンジンはいすゞ初のDOHC機構を備えるもので、11584ccの排気量から120ps/6400rpmの最高出力を発生。わずか970kgの車両重量でしかないベレットを190km/hの最高速まで引っ張ることが可能だった。
G161W型エンジンはいすゞ117クーペに初採用されたもので、フローリアンベースで重量が重い117クーペよりベレットを活発に走らせることができた。そのためスポーツ志向のマニアにベレットGTRは大人気となり、ベレットマニア垂涎のモデルとなった。発売当時10代だったのが今回のオーナーである木村守さんで、18歳の免許取得時からベレットに惚れ込んでいた。だからベレットに乗り始めたのは20代になってすぐのこと。
さらに117クーペにもぞっこんで同時所有してしまったほど。2台のいすゞ車を維持し続けるうちオーナーズクラブへ所属するようになり、いすゞ愛はさらに深まる。同時にクルマの良し悪しを見る目も養われ、自分のベレットや117クーペに不満を抱くようになる。そこで30年ほど前に117クーペは初期のハンドメイドモデルへ乗り換え、ベレットも15年ほど前に今の後期型GTRへ乗り換えることになった。
このベレットについてはベレGクラブの会員から個人売買で手に入れている。重視したのは個体の素性で、大掛かりな修復を受けてなく、そのままでも十分に満足できる性能を維持していた。そこで木村さんが手を加えたのはステージⅢと呼ばれるレース用サスペンションを組み込んで足回りを固め、8スポークのアルミホイールを履かせた。
また後期型GTRはフロントグリルが変更され樹脂パーツが目立つようになり、テールランプも大型化されている。これを嫌うベレGマニアは多く、木村さんも同様の意見。そこで前期型の前後パーツを移植してルックスを自分好みにした。元々の素性が良いためか、15年ほど乗り続けてきた今もトラブルは皆無。旧車に乗るならいかに過去の履歴が大事かというお手本のようなGTRなのだ。
ノーマルのボディスタイルやDOHCエンジン、運転席まわりの秀逸なデザインに惚れ込んだベレットなので、上記以外はノーマルを保っている。ただ一つ、フォグランプにつけたカバーは木村さんのお手製。ワンポイント与えることで自分だけのベレットという思いが強まる。これからも以前と同様に2台のいすゞ車を乗り続けてくれることだろう。