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アメリカ人に今も愛され続けるフォード・モデルB誕生までの物語
アメリカの禁酒法時代(1920~33年)に密造酒の運び屋たちが、仲間うちで誰が速いかを決める腕自慢がアメリカのモータースポーツの原点となり、官憲の追跡を振り切るための愛車の改造が「HOTROD (ホットロッド)」カルチャー誕生の呼び水となったというヒストリー、そして、1932年に登場したフォード・モデルBが安価な大衆車にも関わらず、V8エンジンを搭載した高性能車だったことから瞬く間に運び屋の間で人気車種になったことが、今日に至るアメリカ人のV8信仰の始まりとなった。
故にアメリカではモデルBが神格化され、同車をベースにしたSTREET ROD(ストリートロッド:公道走行を前提にした1949年以前のHOTRODのこと)は、現在でも高い人気を誇る。そこで今回は創業間もない頃から1920年代までのフォード社の足跡を辿りつつ、モデルB誕生までの経緯を前・後編で語っていくことにしよう。
大衆車の夢と情熱を武器に一介の機械工から
フォード帝国を築き上げたヘンリー・フォード
中卒の機械工から身を起こしたヘンリーが初めて自動車を製作したのは、「エジソン照明会社」の技術者として働いていた1896年のことだ。3年後の1899年に実業家のウィリアム・H・マーフィーの支援を受けて「デトロイト自動車会社」を起業する。しかし、完成車が高コストかつ低品質だったことから事業に失敗。この会社は解散した。
1901年、彼はあらためて出資者を募って「ヘンリー・フォード・カンパニー」を創業し、チーフエンジニアに就任する。しかし、同社のコンサルタントだったヘンリー・リーランドとの間で経営方針を巡って対立し、翌年に自身の名前のついた会社を辞することになった(この会社はのちにリーランドをチーフエンジニアに据えて「キャデラック社」に改組される)。
フリーランスの技術者となったヘンリーは、レースカー「999」を製作。このマシンがレースに優勝したことで世間の注目が集まると、友人であり石炭販売会社のオーナーだったアレキサンダー・マルコムソンの資金援助と働きかけもあり「フォード&マルコム社」が設立された。しかし、同社の販売は低調で、取引先であった自動車部品メーカーの「ダッジブラザース・バイシクル&モーターファクトリー」への支払いにも苦慮するようになる。
マルコムソンの働きかけもあり、ダッジ社のオーナーであるジョンとホレスのダッジ兄弟は、株式の一部譲渡を条件にフォードに出資。これを機に現在の「フォード・モーター・カンパニー」へと改名される。なお、ダッジ兄弟は1914年にフォードと袂を分かち独立。兄弟の死後「クライスラー社」に買収され、現在はステランティス内で「ダッジ」としてブランド名を残している。
フォードは創業から5年の間に20車種以上を設計し、そのうちモデルA (初代)、B (初代)、C、F、K、R、Sの7車種の乗用車が量産されている。その中には当時の市場規模で考えれば商業的に充分成功と言っていいものもあったが、ヘンリーが理想として掲げる「農民や労働者でも買える安価な大衆車」には、性能面においても価格的においても彼が満足できる水準にはなかった。
モータリゼーションの原動力となった史上初の大衆車「モデルT」の誕生
1908年、フォードはついにこれまでの集大成とも言える、ヘンリーの理想を具現化した革新的な大衆車・モデルT(いわゆる「T型フォード」)を発表する。
このクルマについては今さら説明の必要はないだろう。多くのクルマが2000ドル以上の価格で販売されていた当時、労働者の平均年収(およそ600ドル)よりわずかに高い850ドルという低価格で売り出されたモデルTは、発表と同時に瞬く間に爆発的なヒットとなった。
そして、その旺盛な需要に応えるために、1913年には画期的なベルトコンベアを使った流れ作業の大量生産工程を採用したのである。これにより作業効率が劇的に向上し、量産効果によってモデルTの販売価格は年々値下げされていったのだ。
この結果、アメリカ中の街角や街道はモデルTで溢れかえった。それに合わせて道路やガソリンスタンド、整備工場などの自動車インフラが整備され、それにともない郊外の開発も始まり人々の生活圏は大幅に広がっていった。自動車の普及によって新たな産業と雇用が創出され、工業製品や農作物の輸送効率も向上。いわゆる“モータリゼーション”の始まりである。
モデルTの大衆への普及により、アメリカは短期間でクルマを中心にした社会へと変貌したのである。それはまさしく革命的な出来事であった。
この革命の中心にあったモデルTは、歴史に比類ないほどの成功作となった。1927年5月の生産終了までに、19年間でラインオフしたモデルTの台数はじつに1500万7033台。44年9カ月後にVWタイプI(ビートル)に抜かれるまで史上最多量産車の記録を保持し続けた。しかし、この成功がフォードにとってのちに仇となる。
時代の変化により旧式化し、陳腐化したモデルT
それでもヘンリー・フォードがモデルチェンジを拒んだワケとは?
1923年に年間生産台数203万5300台以上を数えたモデルTであったが、この年をピークとして徐々に販売は下降していった。この頃になるとアメリカ社会はモータリゼーションがさらに進んで舗装路が普及し、州内の都市間を結ぶ長距離高速道路も整備されつつあった。その結果、自動車の高速化が進むと同時に大衆の好みも変化して、クルマは単なる移動の手段からスタイリングやボディカラーなどのファッション性やエンジン出力などの性能、乗り心地や操作性などの快適性が重視されるようになり、かつての高級車にも匹敵する装備やメカニズム、質感を大衆車にも求めるようになっていたのだ。
だが、未舗装路が当たり前だった時代に誕生したモデルTの取り柄は、この時代になると価格しかなくなっていた。モデルTはロードクリアランス確保のためにボディは腰高で、どんなに改良しても流行のスタイルにはできなかった。おまけに旧態然としたメカニズムでエンジン出力が低く、操作性、乗り心地がともに劣悪な上に、装備面でも大きく見劣りしたことから、性能面でも販売面でもシボレーやダッジなどのライバル車の後塵を浴びるようになっていた。
時代遅れのモデルTのモデルチェンジはもはや必然だった。しかし、ヘンリーにとってモデルTは自らの理想を具現化したクルマであり、モデルチェンジの必要のない完全な存在であったのだ。彼の関心はモデルTの大量生産と量産効果による価格の引き下げにしかなく、周囲の説得にも関わらずモデルTの代替を頑なに拒否し続けた。
だが、このヘンリーの頑迷固陋な態度はエンジニアや経営者としてのポリシーからだけではなかった。その背後には息子・エドセルに対する仄暗い嫉妬心が潜んでいたのだ。
息子・エドセルへの嫉妬心が経営判断を狂わせたヘンリー・フォード
前述したとおり、ヘンリーは一介の機械工からフォード社を起こした立志伝の人である。しかし、同時に学歴がないことにコンプレックスを抱いており、自身の限界もよくわかっていた。そこで後継者たる息子・エドセルには巨大企業・フォードを率いる企業家としての帝王学を幼少期から施したのである。
果たせるかな、名門校を卒業したエドセルは上流階級でも通ずる立ち居振る舞いや豊かな教養、精錬されたセンスを身につけ、大学で当時最新の学問を学んだインテリとして成長した。だが、実際にエドセルがそのような人間に育つと、学がなく、粗野で無教養、洗練さのカケラも持たないヘンリーは息子の存在を疎ましく思うようになる。
1919年にエドセルがフォード社社長に就任したあとも、ヘンリーは社主として絶大な権力を保持し続けた。息子からの改善案のほとんどを拒否し、一度決定したことでもあとから平然と覆した。ときには社員がいる前でエドセルを罵倒することもあったという。
そして、この頃からヘンリーは次第に精神に変調をきたしていく。猜疑心が強くなって他人を信用しなくなり、息子を辱め、陰湿にいびることに無情の喜びを感じるような人格破綻者に成り果てていたのだ。
エドセルが大衆車を生産するリバー・ルージュ工場に新たなコークス炉一式を設置したときなどは、自ら承認したにも関わらず、わざわざ完成を待ってから解体を命じたほどであった。
また、もともと持っていたユダヤ人への差別感情はますます悪化し、労働組合を共産主義の手先として考えて徹底的に弾圧した。前者に関しては地元新聞社を買収し、反ユダヤ主義の記事にあふれた新聞へと内容を変更し、全国のフォードディーラーへ講読を義務付けた。
さらに、全4巻のヘイト本である『国際ユダヤ人』を執筆・刊行し、ドイツ国内ではこの本の翻訳版がナチス台頭にひと役買った(その功績が認められて1937年にはナチスより勲章を授与されている)。後者に関しては元ボクサーのゴロツキであるハリー・ベネットを総務部のトップに据え、暴力を使って組合潰しを行なった。
こうした常軌を逸した父親に対しエドセルは懸命に説得を続けたが、ヘンリーがそれを素直に聞き入れることはほとんどなかったという。しかし、急落するモデルTの販売を前にしてヘンリーは息子の提言を受け入れざるを得なくなり、1927年5月に渋々ながらモデルTの生産終了を決断する。
だが、普通なら生産ラインは直ちに後継車種生産へとシフトすべきところなのだが、ヘンリーはモデルTの代替をまったく考えておらず一切の準備がされていなかったことから、リバー・ルージュ工場は生産すべきクルマがなくなってしまったのだ。工場は直ちに閉鎖され、6万人に及ぶフォード社の工員はレイオフ(解雇)を宣言された。
これ以降、新型車・モデルAが登場するまでの半年間、フォードは主力である大衆車の生産が途絶することになる。売るクルマがなくなったティーラー、とくに地代の高い都市部の販社は窮地に立たされ、フォードとの契約を解除して他メーカーの代理店になるケースが続出。
最大の競合相手であるフォードの失策によってライバル各社は販売を大きく伸ばした。この間隙をついたGMはシェアを拡大し、自動車業界1位の座を奪い取ることに成功する。反面、フォードは創業以来最大の危機に直面することになった。