1967年製ながら69年式という不思議! 40年間乗り続ける日野コンテッサ1300クーペの数奇な物語! 【喜多方レトロ横丁 レトロモーターShow】

トヨタに吸収される前、日野自動車は自社で乗用車を生産販売していた。ミケロッティによる流麗なクーペを40年間乗り続ける人を紹介しよう。

PHOTO&REPORT●増田 満(MASUDA Mitsuru)
1969年式日野コンテッサ1300クーペ。

日野自動車といえばトラックやバスなどの大型車メーカーという認識しかない人も多いことだろう。だが1966年にトヨタと提携して翌年に乗用車市場から撤退する前までは、自社開発による乗用車を生産販売していた。日野自動車は戦後、フランス・ルノーと技術提携してルノー4CVをノックダウン生産することから乗用車製造を始める。部品を輸入して国内で組み立てるノックダウン生産により技術を取得すると、1961年に自社開発したコンテッサ900を発売。4CV同様にリヤエンジン・リヤドライブによる小型セダンとしていた。

独創的なリヤのデザイン。

4CVは日野ルノーとしてタクシーなどに多く採用された。そのためコンテッサ900もタクシーとして採用されるケースが多かった。このコンテッサ900をベースにイタリアのジョバンニ・ミケロッティがデザインを担当したコンテッサ900スプリントというモデルが開発され、1962年のトリノショーや翌年のジュネーブ、ニューヨークなどに展示され話題となる。だが市販化はされず残念ながら1台が作られたのみ。この1台は東京・八王子市にある日野オートプラザに展示されている。

リヤエンジン方式を採用するためテールエンドにグリルがある。

幻のクルマとなったスプリントだが、日野とミケロッティの関係はこの後も続く。コンテッサの次期モデルであるコンテッサ1300のデザインをミケロッティが担当することになるのだ。RR方式は変わらずエンジン排気量を引き上げた2代目は、セダンでありながら流麗なスタイルが評価されてイタリアのコンクール・デレガンスで複数の受賞歴がある。1964年に発売が開始されると国内だけでなく海外での販売も好調で、デザインだけでなく優れたハンドリングやOHVながらプロペラシャフトがなく低振動な駆動系などが評価された。

フロントにグリルはなくミケロッティらしいデザインのヘッドライトが冴える。

コンテッサ1300の目玉とも言えるクーペはセダンより4ヶ月遅れて発売される。美しいデザインはクーペでさらに昇華してミケロッティの傑作として知られることになるが、エンジンの圧縮比を高めてツインキャブレターとしたことで最高出力も55psから65psへアップ。走りの素性の良さはレースでも証明され、アメリカのピート・ブロックがツーリングカーレースに参戦。クラス優勝を飾るなどの活躍を果たした。

1965年にイタリアで開催された国際自動車エレガンス・コンクールで名誉大賞を受賞した記念エンブレム。

内外で高い評価を得たコンテッサ1300クーペだが、1966年には日野自動車がトヨタと提携することとなる。提携の条件として乗用車の生産を打ち切ることが盛り込まれていたことから、1967年にはコンテッサ1300はセダン・クーペともに生産を打ち切られることになる。ファンにとってはまさに悲報で、日野の乗用車の歴史はここで途絶えてしまう。そのためコンテッサ1300クーペは1967年までの初度登録がほとんどのはずだが、なぜかここに1969年式の個体がある。7月13、14日に福島県喜多方市で開催された「喜多方レトロ横丁 レトロモーターShow」の会場に並んでいた1台がそれで、真相をオーナーに直撃することにした。

左右対称のインテリア。ここにこの個体の秘密が隠されている。

69年式コンテッサ1300クーペのオーナーは70歳になる池田則明さん。このクルマを所有して40年になるベテランで、オーナーズクラブに入っていることで様々なトラブルに対処されてきた。では、どうしてこのクルマが69年式なのか教えていただいた。「元々は輸出用に製造された左ハンドルの個体なんです。ところが社内で売れ残っていたこのクルマを社員かどうか定かでありませんが譲り受け、昭和44年に登録されたようです」とのことなのだ。このような事例は他にもあり、例えば日産が初代フェアレディZ432のレース仕様であるZ432Rを製造したものの、途中からレースには240Zで参戦することになり余剰在庫ができた。すると余剰のZ432R数台を登録して中古車として販売した例が残っている。

ドライバー正面に並ぶ4連メーター。

ただし、売れ残っていたのは輸出仕様であり、当然ながら左ハンドル。国内で登録するためには右ハンドルでなければならない。ところがコンテッサ1300はインパネが左右対称にデザインされている。左ハンドルから右ハンドル仕様へコンバートすることは部品さえあればそれほど難しいことではない。ただし、コンバート作業を個人ができるかといえば疑問で、やはり当時の社内の人間が行ったものだろう。

おそらく後付けされたと思われるヘッドレストを備えるフロントシート。

池田さんは40年前、なんとブドウ1箱でこのクルマを譲り受けている。その当時は継続車検が1年になった時期。現在では古くなったクルマでも継続車検が2年間有効だが、昭和の時期に1年車検という時代が存在した。そのため手放すことにする例が多く、現在高騰している旧車が底値になった時期でもある。もちろん程度もそれなりだったわけで、譲渡時はフェンダーやフロアのサビが酷く、場所によっては穴が空いているほどだった。

1251cc直列4気筒OHVのGR100型エンジン。

面白いのは池田さんがコンテッサを入手したくだり。なんと実車を手に入れる前に日野コンテッサクラブへ入会する。やはり自分だけでは得られる情報が少なく、今のようにインターネットが発達していないので頼りになるのは人とのつながり。クラブ員に相談することで、この個体と巡り合うことができたのだ。さらには維持するための多くの知見まで得られ、部品を確保するとサビを除去して全塗装を実施する。さらにヘタった足回りを修理すると、コンテッサならではのハンドリングが体感できるようになった。ところがエンジンはオーバーホールしていない。走行距離が12万キロに届いていない状態なので、調子を崩していないのだ。

昨年オーバーヒートをしたため対策として水路を変更している。

ただ、最近になってエンジンを下ろしてエンジンルームの塗装を手直ししている。さらにフロントがディスクとなるブレーキキャリパーからフルードが漏れてしまう。アルミホイールの塗装が剥がれたことで発覚したのだが、ここでもクラブが大活躍。部品が揃いクラブ指定のメカニックによりオーバーホール作業が行われた。さらに昨年にはオーバーヒートを喫してしまう。近年の酷暑に対応できなかったものと思われ、水路にボルテージレギュレーターを増設しつつ、バイク用のデジタル水温計を追加してトラブルに対処している。1台のクルマに長く乗るには相応の苦労はつきもの。それを乗り越えると家族のような絆が生まれる。池田さんとコンテッサも、まさにそのような関係なのだろう。

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著者プロフィール

増田満 近影

増田満

小学生時代にスーパーカーブームが巻き起こり後楽園球場へ足を運んだ世代。大学卒業後は自動車雑誌編集部…