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最高速に魅了された男を偲ぶ
FNATZ田中克典が語る山本豐史(RSヤマモト)
日本一と言われたチューナー山本豐史。香川県出身、寡黙で眼光の鋭さは一度会ったことがある者なら忘れることはできないだろう。2011年3月30日没。享年62歳だった。
東日本大震災が発生した同月11日、偶然にも自分はRSヤマモトの工場を訪ねていた。揺れるテーブル上のコーヒーがこぼれるのを見て、「ヤバそうだから帰ります。また来ます」。まさか、それが最後になるとは知るよしもなかった。
初めて山本さんに会ったのは、谷田部高速周回路を舞台とした最高速テストの取材中だった。コース上でいきなり、「遅いクルマは帰れ!」と罵倒された。そう言われても仕方ない。こちらのクルマはエンジンブローの連続だったのだから。
「どこどこでは速かった? テストでは何千回転回ってた? そんなことはどうでもいい。ここで、俺の目の前で出せ!」。それが山本さんの口癖だった。悔しかった。それでも300km/hオーバーを達成すると笑顔で歩み寄り、「これでやっといい話ができるな」と言ってくれた。涙が出るほど嬉しかった。
その数ヵ月後、「田中君の作ったECU装着のクルマが入庫して」と初めて電話がかかってきた。慌ててPC片手に埼玉県のRSヤマモトへ向かったが、緊張で足が震えていた。怒鳴られるか? 殴られるか?
到着するやギラッと睨みつけられたが、ROMデータを直して謝罪すると、「本当に自分でやってるんだ。まあ、中に入れよ」とコーヒーを出してくれた。
これが“心の師匠”との付き合い始めとなった。山本さんがZ31で谷田部最速記録を出し、Z32にシフトしたばかりの頃だった。その後、何かと目をかけてくれるようになったが、その理由を数年後に聞かされた。
「中に入れと言うまでは雨でも外で立っているし、リフトに上がっているクルマやエンジン室を決して覗かない。礼儀のある奴だと思ったよ」と。
その頃、自分は大泉学園に住み、RSヤマモトの工場が近くだったことから、仕事帰りに寄るのが日課となっていた。
「ガソリンがジャーと流れる音が聞こえるだろ?」「エアはガーッと入ってバーッと出なきゃ駄目だ」「これはターボなんだよ。吸い込んでるんじゃなくて、押し込んでるんだよ!!」「カムってのはなぁ~」。ある時はインタークーラーに口を当てて息を吹き込み「これは駄目だ、使い物にならねぇ…」と。
数々の最速マシンを作った師匠には理論ではなく経験と実践、そして野生の勘という独自のノウハウがあるようだった。擬音を使いながら、身振り手振りを使い全身で説明してくれる姿は、ただのクルマ好きだったのかもしれない。ショックアブソーバーに腰掛けて「少し減衰力が足りねえな」。さすがにこれには笑ったが、装着車両に乗ってみるとその通りだったのには驚いた。
RSヤマモトの工場は毎日遅くまで営業しているのが当たり前だったが、作っているクルマが気に入らないと夜中でも「タービン換えよう!」と、いきなり作業が始まる。えっ、今から? 明日じゃないの? 寝る時間が削られることなど気にもせず、速くすることに没頭する。これだよな、この人の凄さは! 理屈じゃないんだよ。
「まだまだ進化していく師匠を超えることは永遠に無理でも、せめて8年前(自分と同じ年令)の師匠を追い抜きたい」と心に誓ったのはこの頃だ。
仕事が終わるとよく食事にも連れて行ってくれたが、そこでも擬音による説法は続いた。もちろん、突然の呼び出しによる夜のクラブ活動でも、カラオケと説法は続けられたが(笑)。
「恋愛とチューニングは似てるよな」。そんな師匠らしいセリフが耳に残る。
師匠の墓は東京の多磨霊園にある。我が家から近いこともあり、何度も訪ねては近況報告。誰にも見せなかった寂しがり屋の顔を知っているからこそ、花や線香を持たなくても訪ねるようにしている。
「田中ちゃん、ビール冷えてる? あっ、ピーナッツある?」と、今でも急に訪ねてきそうな気がして。もちろん、いつ来てもいいように用意してありますよ。また、朝まで飲みながら夢を語り合いましょ‼
文:FNATZ田中克典
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