「人間バーベキューにされたりするけど、昔はF1を真剣に目指していたんだ!」山田英二の知られざる半生

セナに憧れてF1を真剣に目指していた男の物語

稲田大二郎との出会いで人生設計がおかしくなった!?

ターザン(もしくはラーマン)という愛称で親しまれる山田英二選手。OPTION誌にはかかせない名物ドライバーであり、日本が世界に誇るタイムアタック請負人だ。そんな男とOPTION誌の出会いは1985年まで遡る。当時のターザンは、F3で活躍するバリバリのレーシングドライバーで真剣にF1へのステップアップを狙っていた。

ひょんなことから稲田大二郎の目に留まり、連載中だった「OPT300ZX耐久レース挑戦記」のファーストドライバーに抜擢。それを機にOPTION誌の様々な企画に参加するようになり、徐々に“悪の道”を歩むことになるのである。

OPTION誌1985年7月号、まだターザン山田が将来有望な23歳の若手レーシングドライバーだった頃の「山田英二って知ってっか」企画をプレイバック!

山田英二の半生(Play Back The OPTION 1985)

生まれも育ちも奈良県の山奥。周りは山に囲まれ、自宅から徒歩10分くらいのところに吉野川が流れる。3人兄弟の末っ子。性格は気弱で人見知りが激しい。が、正義感は人一倍強い。スポーツ万能で、特に山で鍛えた足腰は強靭。そのおかげで運動会ではいつもトップだった。

中学ではサッカー部に入部。1年生でレギュラー入りするほどの実力だったが、わずか半年足らずで退部した。このまま続けたところでアマチュア止まり、お金を稼げるようなプロにはなれない。そう考えたからだ。これからどうしたものか。漠然とした将来への不安が頭を過ぎる。

レーサーに目覚めた日

しばらく悶々とした日々を過ごしていたが、ある時、近くにある鈴鹿サーキットでF2のレースが開催されるという情報を聞きつけた。セリカを所有する兄の影響で、多少クルマに興味があったという山田は、興味本位で観戦を決める。朝4時に起き、始発電車でサーキットまで足を運んだのだ。

「凄いなぁと思いました。それと同時に、自分はこれだ!これしかない!って。苦しいかもしれないけど、レースをやれるものなら本気で、しかも死ぬ気で自分の全てを賭けてやろうと決意しました。中途半端な気持ちではやりたくなかった。だから高校へは進学せず、家の仕事(運送業)を手伝ってお金を貯めてました。実際、お金が無いとレースはやれませんからね」。

18歳になると同時に免許を取得。その1ヶ月後に、コツコツ貯めていたお金でオスカーFJ1600を新車購入。当時、150万円也。そしてすぐに鈴鹿サーキットを走り出した。

初めてのフォーミュラカー

「恐かったです。いくら広いサーキットでも初めてFJを走らせるんだから。ハンドリングはシビアだし、フォーミュラカーだからヘルメットに当たる風も凄い。本当に驚きました。必死にコントロールしていたのは覚えてますが、どこをどうやって走ったのか、記憶にないですね。コーナリングなんかメチャクチャでしたよ」。

山田いわく「最悪のコースデビュー」だったそうだが、そこに至るまでの道程は苦労の連続だったという。田舎育ちで、周囲に運転を教えてくれる人などいない。レーシングカーをどこで買えばいいのか、サーキットはどうすれば走れるのか、何も分からなかった。インターネットも携帯電話も普及していない時代だ。数々の難問を、全て自力で調べながら解決していったのだ。

大クラッシュを経験

レースデビューまでの2年間は練習に明け暮れた。しかし、資金的な問題でサーキット走行は月イチ程度だったそう。ガソリン代やメンテナンス代、走行料など含め、1回の走行で1ヵ月分の給料が飛んでしまうからだ。そして2回目の練習走行で、痛恨の大クラッシュを喫してしまう。

場所・鈴鹿サーキット。当日はあいにくの大雨。最終コーナーから立ち上がった山田は、ストレートにさしかかった時、中央にある水溜りに足を取られてスピン。どうすることもできない。この時、脳裏にひらめいたのは、身体の心配ではなくクルマの修理代だった。マシンはコントロールを失い、コンクリートウォールに激突。山田は大丈夫だったが、マシンは重傷。修理には3ヵ月を要したという。

レースデビュー

レースデビューは1982年の鈴鹿シルバーカップ第4戦だった。予選は26台中14番手、決勝は2回スピンしてあえなく撃沈。当然だ。スポンサーがいて、常に最高のマシンで戦えるトップドライバー達とは環境がまるで違うのだ。どんなに足掻こうとも勝てるわけがなかった。

このままでは戦えない。そう感じた山田は、オスカーFJ1600を売ってウエストを新車で購入する。良いマシンに乗れば、エンジンは悪くてもそこそこの走りができると考えたからだ。

その予感は的中。シルバーカップ第7戦ではポールtoフィニッシュで初優勝を飾った。その日は雨でエンジン性能差が無くなり、他車とのハンディが縮まったからだ。

1983年にF3へとステップアップ。F3ともなると、個人で新車をGETできるほど安くはないため、中古のハヤシF3を購入。相変わらず金銭苦は続いていたため、FJ時代同様にノーメンテナンス&オーバーホール無しで戦う日々。もちろん、そんな状態で戦果を上げられるわけがない。その年はシリーズ6位に終わった。

とあるキッカケ

「他のマシンと全く違いました。一時、自分の腕が悪いのかと思って舘善泰選手(当時のF3最速ドライバー)に乗ってもらったことがあるんですが、ラップタイムが僕より2秒ロスしていて、自分が持っているコースレコードより6~7秒も遅いんです。で、舘選手から“こんなマシンじゃお金ばかりかかって絶対上には行けないよ”と言われて。それからは、お金を貯めるために必死で働きました」。

1984年にマーチ793を購入。東名チューンのトヨタ2T-Gエンジン仕様でF3シリーズにフル参戦し、ポールポジション4回、優勝2回というめざましい活躍を見せ、シリーズランキング2位を獲得。山田英二の名を一躍高めた1年となった。

そして今年は(1985年)は東名自動車のスポンサードとNISMOの援助により、FJエンジンを搭載したマーチ793で参戦。しかし、前年と比べてエンジン差によるハンディで苦戦中だ。

というのも、FJエンジンは2T-Gエンジンより50kgも重く、ボディのバランスがどうしてもリヤヘビーになってしまうからだ。熟成差も大きい。2T-Gは長年レースで使用されノウハウが叩き込まれているが、FJは今一歩という状況なのである。FJ用にシャシーをセットしたいが、それには大金が必要になる。それが現状だ。

目標、そしてライバル

「もうここまできたら次はF2です。早く星野さんや中嶋さんを抑えたい。いつまでもあの人達がトップじゃ面白くないし。ライバル? 意識してませんよ。僕だって走りに関しては自信を持ってますから。ただ、それが結果に結びつかないだけで結びつかないだけで…。でも、やっぱりライバルといったら、生意気かもしれませんが、星野さん、中嶋さんですね。星野さんの速さ、中嶋さんの上手さは流石です」。

「目標はF1で活躍しているロータスのASダ・シルバ(※アイルトン・セナ)。F3からF1へステップアップしてあれだけ走れるんですから。F2よりF3からの方が速いドライバーも多いですし、それだけF3のレベルは高いです。僕は、F3でそれなりの走りをすれば通じると思ってます。シルバがF3当時にやった無駄のない走りを見習いたいですね」。

穏やかな口調とは裏腹に、山田の目はギラギラと輝いていた。本気で頂点を目指しているのだ。

誰からも愛される男

FJからスタートした山田英二のレース人生。F3へステップアップ、そしてアイルトン・セナに憧れてF1を目指す本気のレース小僧だったのである。しかしその数十年後、まさかバーベキューのように炙られることになる(V-OPT企画の人体実験コーナー)とは、本人も思っていなかっただろう。愛すべき男である。

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