「碓氷峠から、世界へ!」土屋圭市という男の知られざる生き様

“ドリキン土屋圭市”独占インタビュー

関東と信越を結ぶ国道18号線。その群馬・長野県境に横たわるのが碓氷峠だ。今ではバイパス(と上信越道)がメインルートになっているが、走り屋が大挙して押し寄せたのは180以上ものタイトなコーナーが連続する碓氷旧道。かつて、そこをホームコースとして毎晩のように走り込み、ルマン24時間耐久レースにも参戦する国内トップドライバーへと上り詰めたドリキンこと土屋圭市氏に、峠にまつわるエピソードを語ってもらった。

「速いヤツじゃないと走らせてもらえない。碓氷って、腕利きが集まる峠だったんだ。

バイクに始まる峠人生

高校生の時は、仲間達とバイクで走ってた。上田市から長野市まで何分で行けるか? なんてことを競ってたんだ。始めは5~6台、そのうち他の高校の連中も入ってきて15台くらいになって、それがいつのまにか50~60台にまで増えて、暴走族みたいに言われて…という感じ。それが峠を走るようになったきっかけだね。

ところが、速かった仲間が事故で亡くなっちゃって。俺も死ぬかもしれないと思ってバイクを降りた。それからGC10で走り始めたんだけど、クルマが大きくて重くて峠では勝負にならない。4輪独立の足回りもあんまりいいと思わなかったし。

で、B110サニーにいったの。1978年から富士フレッシュマンレースを始めてたから。レース車両は解体屋から5万円で買ってきたのをベースにエンジンやミッションを自分でオーバーホール。もう1台、街乗り用にサニーGX5を買って普段から練習してたよ。

碓氷を目指して走り込み

1983年までの碓氷はね、もうキャロッセの天下だったのよ。運転がうまくなってからでないと走らせてもらえなくてさ。「お前ら、危ないから来るな!」って言われたもん。頑張って後ろをついていっても、すぐに見えなくなっちゃってたし。

当然、俺としては悔しいわけ。これは腕を磨かないとダメだと思って、湯の丸や菅平、白樺高原、高峰あたりにしょっちゅう練習に行ってたね。

で、そこそこ速くなっただろというところで再び碓氷に出向いていったの。その頃、KP61に乗ってたんだけど、全日本ラリー選手権チャンピオンだったS氏をやっつけてさ。腕と速さが認められて遂に碓氷デビューが決まったんだ。「じゃお前、走ってもいいよ」って。

後で気が付いたんだけど、「お前ら、来るな」って言ってたキャロッセには愛があったと思う。碓氷は崖下が100m以上のところもあるからコースとしては危ないし、ヘタなヤツが走れば命を落としかねない。だから、上手くなってから走れよと。そういう思いやりや優しさがキャロッセにはあったよね。

ラリー屋vsレース屋

碓氷旧道の長野側スタート地点。標高は960mほどで、峠の釜めしでお馴染みの『おぎのや』がある横川まで標高差600mを下っていく。2023年8月に上陸した台風7号の影響で一部路肩が崩落したため、長野側は進入禁止。群馬側は熊ノ平駐車場までの通行が可能となっている。

1983年までの碓氷はラリー屋のキャロッセが仕切ってた。でも、それからは俺らレース屋が仕切るようになって。

コルス小山さんと組んで、碓氷SPLの開発をやるようになったのが、ちょうどその前後。コルスはウチから15分の所にあったから入り浸ってた。毎週のように、スプリングとダンパーとスタビを換えてたよ。碓氷SPLの前は小山さんがオリジナルでスプリングを作ってて。ダンパーはね、GABやKYB、コニなんかを使ってた。

碓氷SPLは俺がテストドライバーとして乗って、上でコルス小山さんがスプリングとかダンパー、ブレーキパッドとかを用意して待ってて、セットアップを出すためにその場で交換。納得できるまで煮詰めて、俺が碓氷でキャロッセに認められてから発売したんだ。

俺らが碓氷SPLを開発したのは、もう打倒キャロッセよ。走り屋を馬鹿にするんじゃねぇって気持ちが強かったね。

横川をスタートする群馬側からは上りが続く。全長約11km、全184のコーナーはそのほとんどがブラインドというハードかつ攻め甲斐のあるコースだ。「長野側からの下りでタイムを計ったことがあるけど、8分台だった。観光客とかは25分くらい掛かると思うよ」と土屋氏。

碓氷を走る上でのルールはキャロッセが仕切ってる頃から徹底してた。一般車に追いついたらハイビームをやめろ。ハザード出してスピード落とせ。車間を取れ。もしくは停まれってね。対向車が来てるのはコーナー2つ手前から分かるから。木の葉っぱの光り方で。そこでもハイビームをやめてスピードを落とせ、と。

とにかく、通報されないように走れっていうことが徹底されてた。だから、たまに県外から走りに来て一般車を煽ってるヤツがいたりすると、「お前ら帰れ。走りに来るな」って注意してたもん。俺らは走れなくなると困るから、碓氷というステージを何としてでも守っていこうって思ってたんだ。

本気で攻めるのは平日限定

1998年の東京オートサロンOPTブースにて。この年、国内ではチェイサーでJTCCに参戦。海外では片山右京、鈴木利男と共にトヨタTS020でルマン24時間耐久レースを戦い、総合9位という結果を残した。

週末の碓氷は関東各県から走り屋達が何百人って集まった。俺らとキャロッセの走りを観るギャラリーとしてね。
一緒に碓氷を走ってたメンバーは、富士フレッシュマンレースやってる連中が5~6人。これが一軍でハチロクやKP61が多かった。そこそこ収入のあったヤツはハチロクを新車で買ってたよね。でも、重ステでパワーウインドウも付いてない一番安いGTV。当時150万円だったかな。余裕があるヤツはGTアペックスだったけど。

そこに二軍が15人くらいいたかな。みんな金持ちで、フェアレディZとかRX-7とか乗ってたよ。ただ、チームという形ではなく一緒に走ってる仲間っていう感じだった。

軽井沢から、「さぁ行くぞ!」ってハザード出して走り始めるんだけど、まぁ腕に覚えのある一軍は速いよ。二軍はだいぶ離れてからゴールしてたね。

今みたいにスマホがなかったけど、俺らはいつ集まるか噂で分かってて。本気で走るのは月曜から金曜までの平日だけ。コルスにいると諏訪とか茅野のヤツから電話が掛かってくるわけ。「今日、行かない?」って。「じゃあ行こっか。何時集合にする?」みたいな。そういう時代だった。

開発テスト兼レースの練習

1984年の富士フレッシュマンレースにハチロクで参戦した土屋氏。開幕6連勝という快進撃を見せ、同年のシリーズチャンピオンを獲得した。翌年からは全日本ツーリングカー選手権(JTC)にステップアップし、その後、N1やJTCC、JGTCを経て、ルマン24時間耐久レースにも参戦するなど活躍の場を広げていった。

ハチロクで富士フレッシュマン6連勝したのが1984年。それと並行して、もちろん峠にも走りに行ってたよ。碓氷に関して言えば、2000年までは通ってた。暗闇に目を慣れさせるのが目的で、ルマンのナイトステージの練習としてね。

足回りやブレーキの開発テストで毎晩のように走ってたけど、それ自体がレースの練習になってた。テストだから、ガソリン代やタイヤ代はメーカーが全部出してくれるわけで、走りの練習をする環境としてはすごく恵まれてたと思うよ。

高峰はエンドレスのブレーキテストで良く走ったね。標高2000mから一気に下るからブレーキやタイヤに掛かる負担が大きくて。サーキットよりもよっぽど過酷な状況でテストできる。そういえばOPTの取材もほとんど高峰でやってたな。

ウインマックスに始まって、そこから分裂した俺らがエンドレスを作って、そのテストもずっとやってた。その後かな、菅平や湯ノ丸もテストコースとして使うようになったのは。

でも、やっぱり碓氷がコースも長くてブレーキテストには最高なのよ。コーナーが184もあるからさ。32GT-Rで本気で攻めるとローター温度が800℃を超えるんだ。エンドレスのパッドが一気に有名になったのは、その頃じゃないかな。

ヨコハマタイヤとTRD

1984年8月に富士スピードウェイで開催されたRRC富士F2チャンピオンズレース JSSスーパースポーツセダン。土屋氏はグレーサーオートジャパンソアラで参戦し、13位で完走した。

1985年くらいだったかな。ヨコハマタイヤが毎月、アドバンタイプDとかタイプEとかタイプCを5~6セット送ってくるようになった。それを峠でテストしてレポートを返すんだけど、俺にとってはタイヤ代を気にしないで練習ができるんだから、嬉しくてしょうがなかった。

平塚からエンジニアがワンボックス3台にタイヤを積んでやってきて。俺が言うことを信用しないヤツは助手席に乗せて走ったりもした。そしたら酔って吐いちゃって、仕方がないからウチに泊まらせて。で、また翌日テストに同行してもらって。ひたすら走り込むもんだから、「ちょっと休憩してもらっていいですか」なんて言われたけど、「休んでたらこのセット、テスト終わんないぞ」ってね。

1987年になると、富士プロダクションレースで面倒を見てくれた坂東さんが、コルスにTRDの試作パーツをバンバン送ってくるようになったの。それを俺のハチロクに装着してテストするわけ。一晩でガソリンを2回満タンにするくらいだったから、どれだけ走り込んでたか分かるでしょ。

カーボーイ誌、OPTION誌との接点

1988年の東京オートサロンで撮影されたひとコマ。土屋氏がじゃれ合っている相手は、エンドレス現会長の萩原正志氏だ。

俺が雑誌で取り上げられるようになったのは八重洲出版のカーボーイ誌やドライバー誌。俺の愛称になる“ドリキン=ドリフトキング”って付けてくれたのが、当時カーボーイ誌の編集長をやってた池田さんね。ある時、その池田さんが、「どこどこの峠に○○っていう速いヤツがいるから、勝負してみない?」って企画を持ちかけてきてさ。

もちろん、俺は「行きます」と。どうやって探してたのかは知らないけど、とにかく池田さんが色んなヤツを見付けてくるんだよね。で、ヤラセ一切なしのガチ勝負だから、前日に現地に入って下見するの。そこにスプリングとダンパーとブレーキパッドを持ち込んで、走り込みながらセットアップ決めてた。で、翌日の勝負に合わせるんだ。リアル頭文字Dの世界だよね。

そんな峠対決企画で、いろは坂、大垂水、六甲…いろんなとこに行ったもん。

古くからのOPTION読者には懐かしいタコ・イカステッカー。中でもレアなのが、土屋氏から「速い」と認められた人だけが直接もらうことができたシルバーのタコステッカーだ。

OPTIONはね、Daiちゃんに声を掛けられたのが最初。「お前で1冊本を作るからOPTIONに出ろって」。ただ、当時の稲田大二郎って今で言う反社な人に見えててさ、俺には。怖い人って感じで。だから、実はOPTIONのことは避けてたのよ。

ところが、Daiちゃんと話をしたらまともな人だなって印象が変わって。それで、土屋圭市を特集したOPT別冊を作ってくれて。それからの付き合いだね、Daiちゃんとは。

でも、メチャクチャな人だよねぇ。ある時、「峠でクルマを横転させてくれ」って言われて。もちろん、やったよ。高峰で。土手に乗り上げればクルマなんて簡単にひっくり返せるから。

サーキットを上回る面白さ

決して大げさではなく、死ぬか、生きるかの世界。それが峠だろうね。思い返せば、サーキットとは明らかに違う変な汗を良くかいてた気がする。

サーキットでかく汗はスポーツのそれだけど、峠でかく汗は死にたくない、ケガしたくないっていうところからきてる。冷や汗というか、脂汗というか。

ただ一つ言えるのは、サーキットに行くより峠を走ってた方が面白いってこと。サーキットはある程度、安全が確保されてるけど、峠はそれがゼロ。その分、緊張感があって面白さにも繋がってると思うんだ。

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