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伝説の最高速チューナーと呼ばれた男
1980年代初期から、谷田部最高速に挑み続けたチューニングショップ「RSヤマモト」。その代表である山本豊史氏は、日産車チューンでは誰もが認める巨匠としてチューナー仲間からも慕われ、また、若きチューナー達に多大なる影響を与えた人物だ。2011年3月27日、惜しくも急逝されたのがつい最近のようにも感じてしまうが、 創成期のチューニング界を最前線で駆け抜けた男の生き様を、1983年1月号に掲載された「新・必殺改造人 山本豊史」を通して振り返っていこうと思う。
レジェンドチューナー“山本豊史”の素顔
最高速日本一! 峰を極めた新彗星
日本一速いクルマを作る。それは、チューナーならば一度は見る夢だ。L型ターボを搭載したニューZで290.32km/hを記録し、あのRE雨宮を抜いたRSヤマモトの山本豊史は、わずか1年間の最高速挑戦で、栄光の座を把んだのである。果たして、その山本とはどんな男なのか?
目の前に1基分のエンジンパーツが並んでいる。
「これが、あのZのエンジンです」。指差されたブロックとヘッド、そしてバラバラになったワンセットのパーツ類が、日本最速のエンジンだというのだ。なんの変哲もなかった…。ニューZのCD値は約0.37。フロントとリヤにスポイラーを装着して多少軽減したとしても、0.35を切ることはなかろう。CD値=0.35のマシンが、290km/hを記録するために必要とするパワーを算出してみると、350ps前後という値がはじき出される。後輪で実際に路面に伝えるパワー、つまり後輪軸出力=350psということは、エンジン単体なら400ps近くなければいけないはずだ。
この400psのエンジンを組んだチューナーは、わずか数ヵ月前までは、全く無名だったRSヤマモトである。L型チューナーといえば、全国に無数にある。L型を使って日本最速にチャレンジするチューナーが、一流と言われるところだけでも10軒近くある。その有名チューナーの陰に隠れて、RSヤマモトは常に地味な存在でしかなかった。
チューニングの世界だけは、スタンドプレイが許されないという。遅いクルマがある朝、突然速くなったり、1日にして超一流になったりすることはない。毎日毎日の地道な研究と作業が積み重なって、初めて一流の名前が与えられるはずだ。だが、最高速トライを始めて、約1年しかならないRSヤマモトが今、国産最速マシンを持つ、日本一のチューナーの座を奪取している。
ニューZにL型3L+HKSスーパーターボ・キャブ仕様のエンジンは、チャンピオン雨宮RX-7ツインターボの288.00km/hを破る、国産車初の290km/h台を叩き出したのだ。しかも、超一流チューナーが数年の期間と、数10回の最高速テストで一歩ずつ築いたこの記録を、RSヤマモトはまるで奇跡のようなハイペースで駆け上ったのである。
まさに一夜にしてスーパースターになった、この「シンデレラ」的快挙は、一体いかにして可能になったのだろうか。RSヤマモトのスタッフと言えば、社長兼従業員兼メカニックの、山本豊史ただ一人なのである。290km/h、出るべくして出たと静かに語る男。新しいヒーローがどんな男なのか、興味は尽きない…。
チューニング界を震撼させた男のプロフィール
川越街道から100mほど入った住宅街の一角に、RSヤマモトはあった。ショップと言えるほどではない、ガレージである。目を凝らして見ると、店内には無造作に置かれたエンジンブロックやヘッドに混ざって、エアリサーチ製のタービンT04B、ソレックス3連キャブとHKS独特のデザインのエアチャンバーなどが確認できる。壁にはギッシリと工具類が吊るされてはいるが、見渡した限り、別に290km/hや400psの秘密はどこにも感じられない。
「もうすぐ独立して2年になります」と、山本は切り出した。風貌は痩せ過ぎ、五分刈り、ちょっと鋭い眼光が印象的である。メカニックというよりも、夜の街が似合いそうな感じ、と言ったら、叱られるか。昭和24年3月12日生まれの33歳(当時)、生まれは香川県。香川で過ごした工業高校時代は、かなりの悪ガキ、ツッパリだったらしい。悪さは一通り経験済みだという。タバコや酒はもちろん、その他の道でも相当、やりたいようにやっていたそうだ。
その他の道のひとつに、機械イジリが含まれていた。最初の犠牲は、兄の大事にしていたバイクCB72だった。16歳でバイクの免許を取ると、兄そっちのけで、このCBで田舎道を飛んで回った。見様見真似でエンジンをバラしてポートを削ったり、モトクロッサー風に改造したり。高校を出て、東京のある外資系製薬会社に技術員として就職し、初給料をつぎ込んでヤマハAT90を買う。当時はバイクレース全盛。雑誌を見ては、エンジンを改造した。
「昔から資料魔というか、とにかく本を読んだり調べたりするのが好きだった。チューニングの記事はむさぶるように読んで、すぐ自分のバイクでやってみましたね」。給料は、全てこれに消える。次の年には、中古のブルーバード410を友人から手に入れ、サニーB10を経て、マツダのプレストロータリーの新車にまでグレードアップする。このころから、仕事の暇なときに、近くのカーショップでアルバイトを始め、そのうちこっちが本業になってしまう。
本格的なチューニング作業に手を付け始めたのは、その店の四国支店を任されてからだ。「その頃、今のHKSとシグマオートモーティブが、極東から日本で初めてのボルトオンターボを出したんですよ。L20ワンキャブ仕様のね。で、当然面白いと思って、お客さんのクルマに何台も取り付けたんですが、ハッキリいってこれが難物でね。ターボとは名ばかりで不調続き。電気系がトラブったり、プラグがすぐカブったりね。どうしても調子良くしたいから、手当たり次第、本を調べたり電話で尋ねたりしたんです」。HKSの長谷川社長とも、その頃知り合う。山本の、あまりにも熱心な電話での質問攻めに感心した長谷川社長は、HKSが初めて出した3軒の特約店のひとつを山本の店に与えたという。
東京に呼び戻され、半年ほどチューニングから遠のくが、どうしてもその面白さが忘れられず、ショップを円満退社して、新しくできたチューニングショップ『三番館』に移った。昭和51年暮のことである。「三番館での4年間、一番みっちりと勉強しましたね。特にL型はあのタフさが好きでね、しつこいくらいチューンしましたよ。自分のジャパンにL28を積み、HKSのストリートターボを付けて、有明のゼロヨンに毎週通いました」。
記録はフロックではない。理詰めのチューニングの、当然の帰結なのだ
山本は性格的に、妥協が出来ない…と言っても、これは良い意味でだ。いわゆる猪突猛進タイプじゃない。山本のチューニング方法は、大学の研究室でやるような、純粋な実験スタイルで行われる。
「例えばね、CDIを付けるとする。普通なら、CDIとハイテンションコードと、コイルとプラグを一度に取り換えますよね。ボクはそれが嫌なんです。いっぺんに複数のチューンをすると、本当のCDIの効果が分からなくなってしまう。だから、初めて付ける時はCDIだけにする。もし性能アップしたなら、次へ進む。アップしなければ、付けるのをやめる。これはひとつの例ですけど、ボクは全てのチューニングをこうして進めていくんです。頭悪いから、一度にたくさんのことが出来ないんだな」。
山本は、チューニングを進めていってパワーに行き詰ったり、不調が直らなかったりした場合、今までひとつひとつやってきたデータを、最初から見直してみるという。だから、その時のために、チューニングを行っていく途中の変更点と効果について、ビッシリと記録を取ってある。
こうした、独特の実験調チューニングを三番館で磨いた山本は、1955年12月に独立する。お客はすぐに三番館時代の人たちがやってきたので、困らなかった。が、最初の2~3ヵ月はさすがに心労で自信を失いそうになったらしい。だが、そんな時にも、ツッパリ根性と生まれつきの負けず嫌い、山本を頑張らせる。
開店1年め、つまり今年(1982年)の3月に、カーボーイ誌のショップ対抗最高速に初チャレンジ。山本自身のジャパン+3.0Lキャブターボ仕様で248.28km/hをマーク。このクルマは、ゼロヨンでも13秒27を記録する。この数字は、今(1983年1月)でもジャパンの最速データである。
「最高速に取り憑かれましたね。ゼロヨンはボディ重量とかギヤ比とかタイヤとか、とにかくエンジンパワー以外の要素で決まる部分が多い。だけど、最高速はボディが同じなら、パワーの勝負です。とにかくパワーを出したヤツが勝つんだと思うと、何が何でもパワーを出そうと、ありとあらゆることをやってみましたよ」。(1982年)5月のカーポイント誌テストでは、旧Zの2.9Lキャブターボで、やはり248.28km/h。このときのL型ターボのチャンプは、OPT・Zの263.73km/hだから、まだ2線級の仕上がりである。
この旧Zに積まれた2線級のエンジンが、やがて400psのパワーを発揮するに至ったわけだが、その時は各部の不調で全くパワーが出ていなかった。HKSのスーパーターボキットをストレートに組んだだけでは、いかにキャブのジェットのセッティングやエンジンのセッティングを換えてもパワーは出なかったという。
「いろいろ考えましたね。何しろ下の回転でキャブを決めると高回転で吹けず、反対にするとストリートじゃ使えなくなる。最大限譲って高回転優先にしても、パワーはそれほどでもない。とにかく、ひとつひとつ原因を潰そうと、このZのオーナーと相談したんですよ」。
結局、最初に行った重大な変更は、なんとクルマを新車に替えることだった。使っていた旧Zは電気系を改造した形跡があり、何度交換してもCDIがパンクするトラブルを抱えていたのだ。そこで、お客であるオーナーは、2.0Lの新車のZ…一番安い仕様なので、山本は素Zと呼ぶ…を購入、これに同じエンジンを搭載してみる。もちろん、条件を同じにするためにエンジンはそのままだ。まず、ボディ交換だけで見違えるようにパワーが出るようになった。やはり電気系が弱かったのだ。足回りもしっかりしたし、空力も良好なので、安定性は格段に良くなった。次がパワーアップである。
「ターボは空気の流れがパワーを決める。いかに各気筒に均一に空気を導くか。いかに適切な燃料の空燃費を設定するか。とにかく毎日、朝から晩までそんなことを考えてました。で、ひとつ思いつくと、とにかくやってみる。夜中でも起きてきて作業して、テスト走行に出かけました」。
その情熱が、いくらページがあっても書き切れないほどのノウハウを、いつしか蓄積していたのだ。その細かいセッティングは、さすがと思わせるものが何10ヵ所もある。ひとつひとつのセッティング、改造に、ちゃんとした目的と理由があり、そしてテストの結果、立証されたという証明があるのだ。
「考えてみれば当たり前のことですよ、みんな。例えば、各気筒ごとに入っていく空気の量が違っていれば、当然ガスが濃いシリンダーと薄いシリンダーができてしまう。インジェクションなら、各気筒ごとの噴射量が全く同じだから、さらにそれが助長される。その点、キャブは良いですよね。空気量に見合っただけ燃料が出るんですから。だから、ボクはキャブを使っているんですけども、しかしそれだけじゃダメ。いかに各気筒の空気量を均一にしてやるか、メイク&トライで何10回となく改造を重ねましたよ」。
彼はさらに続ける。圧縮比とブースト圧と点火タイミングの関係、燃焼室形状、バルブとバルブシート、カムの形状、ブロックのひずみ、ボーリング加工のノウハウなどの、エンジン本体の組み方のコツと、その理屈。タービンの設定、チャンバー形状、キャブの改造、吸気の流速、ウエイストゲートのチューニング加工etc…。それにも人を納得させるだけの理由がある。思わず唸らされるコロンブスの卵的発想もある。
山本は大変は学者だ。そう感じさせる。細かいセッティングがひとつひとつ、確実にパワーをアップさせ、このニューZは(1982年)09月のカーポイント誌テストで、ついにL型ターボ最速の274.80km/hをマークする。Zオーナーの平田さんは言う。
「とにかく、セッティングを変えるごとにドンドン速くなっていきましたよ。凄いもんです。あそこをイジった、というとポンと10km/h近く伸びる。次をやると、また5km/h分パワーアップする。そうやってパワーと戦ってきて、ふと気がつくと、290km/hが出てた、という感じですね」。
山本は続けて言う。「だから、日本一とか何とか、そんな実感は全然無いですよ。見てもらって分かると思うんですが、別にウチのエンジンは変わったパーツはひとつも使ってない。タービンもHKSから買ったA/R0.96のもんだし、カムもピストンも国産のチューニングパーツ。本当に細かくひとつひとつを詰めていっただけなんですよ。だから何台でも多分作れるだろうし、逆に誰にだって作れると思いますよ」。
山本と日本一の座を争う雨宮も、以前全く同じようなことを言っていた。険しいチューニングの峰を極めた者のみが語れる余裕なのだろうか。技術は誇っていても、決して自惚れてはいないことも、両者に共通する特徴だ。
山本の頭の中は今、最高速テストのセッティングでいっぱいだ。ファイナルを下げ、5速のギヤ比を大幅アップしてトライする予定だという。彼のツナギのポケットからは、各ギヤ比で計算した最高速のメモが出てきた。5速6000rpm=294km/h、6100rpm=299km/h、そして…。
山本の理論+実践のチューニングは、確実に国産初の300km/hの壁に近づきつつある。あるいは一気に突破する“驚異”も夢ではない。(1982年)11月25日、本誌最高速テストに全力でチャレンジするRSヤマモトZの記録が気になる!
終わりに
若かりし頃の山本氏は、見た目同様に厳しい方だった。が、晩年(90年代後半)は、OPTION誌の若手スタッフにもチューニング理論から人生観まで、様々なことを教えてくれた。そしてそれは、他ショップの若いチューナー達に対してもそうだったようだ。
誰よりも真剣に、誰よりも純朴に、誰よりも真面目に最高速と向き合ったチューナー。それがRSヤマモト・山本豊史氏という男だった。