目次
「クルマがただ移動の道具だけだったら、オレは手放すよ」稲田大二郎
暴走機関車、若き日のストーリー[OPTION誌1983年6月号]
OPTIONグループの総帥にして、チューニング業界のレジェンドでもあるDaiこと稲田大二郎(75歳)。モータースポーツ編集者を志すも、当時、暴走族と同義的に捉えられていたストリートチューンの魅力に取り憑かれ、OPTION誌の創刊や東京オートサロンの立ち上げに尽力。1980年代の話だ。そんな男の若き日のリアルな走り屋像に迫ったのが、“MY ROAD東京サーキット”特集だ。雨宮勇美編に続く第2弾、稲田大二郎編をお届けしてく。
オレたちはストリートで速くなった!
長崎県生まれの九州男児。オートスポーツ誌編集部を経て、フリージャーナリスト。レースと走りが大好きで、チューニングカーにも目がない。クルマ以外には興味がないというか、カークレイジーだ。OPTION誌を中心に、自動車専門誌や一般誌で執筆中(当時)。
なにしろ、運転が上手くなりたい。皇居周辺、青山、そして湘南ルート・・・
今でも運転は上手くないけど、昔はもっと下手だった。免許とってクルマを買ったら、なにしろ毎晩のように走りに行ったね。運転の練習するとこなんて、公道しかないんだ。そりゃ、休みの日にサーキットへ出掛けるのも手だけど、夜は街中を走れるんだから、十分、練習になるよ。
コースは決まっていた。皇居周辺の内堀通りが良いコーナーがあるんだよ。竹橋とか、三宅坂の高速コーナー。そして、千鳥ヶ淵のコーナー。市ヶ谷から四谷見附に行く、本塩町のコーナーも良かったね。毎晩走って、少しずつスピードを上げていく。スピンもしたけど、対向車が来ないときだけ攻めるからクラッシュ知らず。青山も好きな場所だった。とくに墓地下が高速コーナーでかなりシビアなんだ。
このシティサーキットでも、当時のクルマは足が弱く、スピードは高くなくても挙動が激しく、逆ハンやドリフトを覚えていった。もちろん、首都高もオレのサーキットだった。先輩の後ろについて走り、なんとか上手くなろうと必死だったよ。
都内でひと走りして、そのまま第3京浜から横浜新道を通って、湘南まで飛ばす。そして、長者ヶ崎でUターンして戻るのが日課だった。クルマは、中古のコンテッサ・クーペ、遅いからソレックスキャブ付けてた。それでも、新しいカローラの1100に負けちゃうんだ。でも、オレは遅いクルマなりに、コーナーのスピードを上げていくのが楽しくてしょうがなかったよ。サスは車高短、マフラーも抜いていたから、いつも交番のおまわりさんや白バイに止められたけど、なんとか許してもらえる時代だった。
レースに出たかった。でも、戦闘力のあるクルマが作れない。ジムカーナくらいで精一杯。ストリートで練習して、ジムカーナで腕を試す、というわけだ。もちろん、今でも良いコーナーが目の前に迫ると、攻めたくなる。もう本能だね。でも、最近のクルマは性能が高いから、スピードレンジが上がって怖いね。首都高や東名も路面が悪く、クルマが多い。それでも、飛ばせるチャンスがあれば飛ばすよ。人に迷惑かけないのなら良いと思っているから。
走り、スピード。これだけは、どんなに歳をとっても止められない。クルマがただ移動の道具だけだったら、オレはクルマを手放すよ。
終わりに
Daiと雨さん、二人ともすでに70歳オーバーだが、どちらも当時の「走り屋魂」は変わっていない。今後も、チューニング界のトップを全開で走り続けていくことだろう。