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BNR34チューンのきっかけはアースマラソンだった!
チタンマフラー特有の乾いた高周波サウンドを響かせながら現れたベイサイドブルーのBNR34。芸歴54年。昭和の時代から日本を笑顔にしつづける男、間寛平そのひとの愛車である。さぁ始めよう、お笑い芸人ではない、走り屋としての間寛平の回顧録を。
レジェンド芸人の生き様
「スバル乗りって不思議。いや、ホンマに。GT-R乗っとって煽ってくるんは決まってスバルなんですよ!なんやねん! 勝負したくもなるけど、もうそんな時代ちゃいますしね。すぐ避けます。けどまぁ、僕もフェラーリとか見かけると後ろに付いたりするから、文句言えんね(笑)」。
紡がれる言葉たちの全てが、実直で、聰明で、優しさに満ちている。
戦後、芸能産業は日本社会の大衆文化形成における中心的存在だった。美空ひばり、黒澤明、石原裕次郎、坂本九…時代を創り出した新しいスター、アイドル、そしてコメディアン。その成立の歴史を描く上で、間寛平もまたその名を刻まれるべき人物の一人であろう。
1949年生まれ、高知県出身。24歳の若さで吉本新喜劇の座長に就任し、関西で絶大な人気を博す。その後、紆余曲折を経て1989年に東京進出。不条理なギャグでお茶の間に笑顔を振りまく一方、多彩な才能を開花させ、俳優、ミュージシャン、アスリートとして幅広いフィールドで活躍。現在は、吉本新喜劇のゼネラルマネージャーという立場で若手の育成に尽力している。
まさしく近代芸能史の生き字引。そんな男がゴリゴリに手が入ったBNR34から降りてくる姿は、どこか喜劇的で、映画のワンシーンのようにも見えた。レジェンド芸人とチューニングカー、馴れ初めはどうだったのだろうか。
“お笑い”にも“クルマ遊び”にも全開だった20代
「クルマに興味持ったんは16歳の時。隣の兄ちゃんが、プリンスで仕事に出掛けていく姿が眩しくって」。
プリンスとは、1964年に発売された“プリンススカイライン2000GT”の略称だ。学生時代に幾度となく見送った丸型4灯テールのバックシャン、それが自らの人生に大きな影響を与え、30年後に奇しくも最後のスカイラインGT-Rを購入することになるなど、当時の寛平さんは思ってもいなかっただろう。
「18歳で免許を取って、最初に買ったんはダイハツのコンパーノスパイダー。4人乗りのオープンカーね。その次は三菱のデボネア。あれは鉄の塊で、スピード出すと止まらんくてな!」
運転免許という翼を手に入れた寛平さんは、当然のようにカーライフを謳歌した。時を同じくして、お笑い芸人としての道をスタートさせるが、しばらくは完全に「芸人」と「走り屋」の二股状態だったそう。
「新喜劇が終わったらクルマ遊び、そのループやったね。21歳から嫁と結婚する28歳までは家に帰らんかった。友達の家に住んだり、ラブホテルで暮らしたり、クルマで寝たり」。
理由は単純明快、クルマ遊びの時間を作るためだ。
「なんば花月劇場(現:なんばグランド花月)の近くにクルマの部品屋と修理屋が並んどってね。そこに通って、ずっとクルマをイジッとったんですわ」。
その頃の愛車は、S30系フェアレディZの象徴とも言える240ZG。当初、輸出仕様のみに設定されていた2.4L仕様のL型エンジンを国内向けにモディファイし、1971年から追加ラインナップされたものだ。しかも、寛平さんが乗っていたのは完全なレース仕様だったというから恐れ入る。
「23〜24歳くらいやったかな、セリカLB(リフトバック)で走っとった時期。マツダのカペラロータリーがメチャメチャ速くて、勝たれへんのよ! そんな時に、馴染みの部品屋にレースで優勝した240ZGが積載車で運ばれてきた。コニの足が入ってて、ロールバーもガチガチ。消火器も積んどったな。これなら勝てる思うて、売ってくれー!言うてな(笑) たしか、180万円やったと思います」。
GT-Rへの片思い
240ZGを手に入れてからの寛平さんは、本人の言葉を借りるなら、完全な“狂走族”だったそうだ。
「阪神高速を仲間と飛ばしたりね。そりゃあ吉本からはめっちゃ怒られてましたよ(笑) 今、なんばグランド花月がある場所って昔は駐車場やったんです。そこでも走りまくっとったんやけど、僕があまりに言うこと聞かんもんやから、一回、240ZGのフロントガラス全面に出演ポスターをベッタベタ貼られてもうて(笑) あれにはビックリしましたね」。
240ZGは結婚後まもなく手放したものの、その後も走り屋らしい車歴を重ねていく。ハコスカやブルーバードSSS 、初代ランサー、ギャラン、NSX (現在も所有!)など往年の名車を乗り継いでいったのだ。もちろん全てマニュアルだ。
そして1989年、ついに第二世代GT-Rの登場を迎える。
「R31型のスカイラインに乗っとった時やね。R32型のGT-Rが登場して。見た瞬間、嫁に言うたんです。これ、欲しいねん!って」。
しかし奥様からは「今は我慢しい」と許可が下りず、購入は見送ることに…。そこからさらに月日が経ち、時は1999年。最後のスカイラインGT-Rがデビューする。
「我慢できるわけないでしょ。改めて嫁に言ったんです。今度こそ欲しいねん!って。そしたら『結婚20年目の節目やし、ええよ』と言ってもらえたんです。購入金額はフルオプション仕様で850万円くらいやったかな」。
なるほど。ナンバープレートの数字が奥様との結婚記念日という意味はそこにあったわけだ。
「正直ね、アースマラソン中はGT-Rのことばっか考えとったよ」
念願かなってGT-Rを手にした寛平さんだったが、走り屋がノーマルで満足できるわけもなく、しばらくしてチューニング熱が再燃する。
「GT-Rをチューニングしよう思ったんは、アースマラソンの時ですよ」。
アースマラソンとは、寛平さんが芸能活動を休止し、2年一ヶ月という途方もない時間を費やしてマラソンとヨットで地球を一周したプロジェクトだ。2008年冬になんばグランド花月をスタートし、千葉県の鴨川市からヨットで太平洋を横断。その後、アメリカ〜大西洋〜ヨーロッパ〜中央アジア〜中国を経て、日本に帰ってくるという壮大なスケールの冒険劇。移動距離は4万1000kmにもおよんだ。
「いつくらいやったかな。アースマラソンを走破したら自分にご褒美をあげよう思って。それが、GT-Rをカッコ良くイジることやったんです。我慢できんくなって、三菱に勤めててクルマに詳しい嫁のお姉ちゃんの旦那に電話して、改造車の雑誌を送ってもらったりしました。毎晩、読んどったね。海外からショップに電話して質問したこともあったな。取り合ってもらえんかったけど(笑)」。
最終的に、寛平さんが愛車のチューニングを依頼したのは、関西屈指の名門チューナー“ナギサオート”だった。
「自宅から空港に向かう道中に、変なクルマ屋があるなっていつも思っとったんです。速そうなGT-Rとかが止まっとったしね。それをアースマラソンの最後の方に思い出して。すぐに嫁のお姉ちゃんの旦那に電話して調べてもらいました」。
そこからは怒涛の展開だ。連絡先を知るやいなや、トルコからイランに入るあたりでナギサオートにコンタクトを取り、「日本に必ず帰るから、それまでにGT-Rをカッコ良くしてくれ!」と作業依頼したそうだ。
「GT-Rは嫁のお姉ちゃんの旦那に運んでもらって。もう、そっから頭の中はずっとGT-Rのカスタムのことばかり。僕が考えてたんは、フェンダーを昔のベタ付け風にした感じやったんやけど、出来上がったの見たら全然違くて(笑) でも、これはこれでアリやなって。こんなワイドフェンダー付けて走っとるGT-Rなんてあんまおらんでしょ?」。
事実は小説よりもなんとやら。当時、テレビメディアは命を賭して走り続ける男の生き様を感動的に伝えていたが、当の本人は愛車のカスタムプランを妄想しつづけていたわけだ。
走行3万キロの超極上BNR34
寛平さんのBNR34は、走行距離3万kmの超極上個体だ。心臓部はOS技研の手によってブーストアップが敢行され、盤石の400ps仕様で仕上げられている。現在の市場価値と照らし合わせるなら、2000万円はくだらないだろう。
そのことを伝えると、かのお笑いレジェンドは20年来の相棒を見つめて口にした。
「もう僕も歳やから、手放そうかなぁ思ったりもします。最近はゴルフ行く時くらいしか乗らんしね。でもねぇ…。嫁から、たまに『処分しいやぁ』言われるけど、ちょっと待ってくれよー答えてまうんです。やっぱ好きなんですよね」。わずかな間を置いて「いやいや…! 値段によっては売るで〜!」。
走り屋・間寛平のチューニングカーライフ、その未来やいかに。
●WEB OPTION JOKERS Vol.2より抜粋
PHOTO:南井浩孝/SPECIAL THANKS:GLION MUSEUM