自動車保有台数が約1000台の時代に輸入販売へ

日本自動車殿堂入りを果たしたヤナセの創業者である梁瀬長太郎氏。
日本自動車殿堂入りを果たしたヤナセの創業者である梁瀬長太郎氏。

梁瀬長太郎は1879年、群馬県碓氷郡豊岡村に生まれた。1904年に東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業し、大阪商船に入社。翌1905年には三井物産に移り、インドのボンベイ(現・ムンバイ)で綿花取引に従事した後、帰国して機械部の鉱油係に配属された。

自動車との関わりが深まるきっかけとなったのは、三井物産が1912年に米国ゼネラルモーターズ(GM)傘下のビュイックの販売代理権を獲得したことである。鉱油係主任だった長太郎は、翌1913年からその輸入販売を担当した。

当時、日本の自動車保有台数は約1000台にとどまり、自動車には高価で危険という印象も強かったという。販売は伸び悩み、赤字を計上した三井物産は自動車の取り扱いを停止することになる。長太郎はその事業を引き継ぎ、1915年5月25日に「梁瀬商会」を創業した。

1922年には純国産車「ヤナセ号」を製造

1915(大正4)年の創業当時に販売を開始した『ビュイック』。
1915(大正4)年の創業当時に販売を開始した『ビュイック』。

輸入車販売を手がけた長太郎は、国産車の製造にも取り組んだ。1922年には純国産車「ヤナセ号」を製造したが、コストがかさみ、量産化を断念。その後は輸入車販売に重点を置いた。

1923年の関東大震災では、乗用車の大量発注という経営判断を下している。出張先の米国にいた長太郎は、復興には物資よりも人の移動が優先すると考え、トラックの輸入を勧める周囲の反対を押し切ってGMに乗用車2000台を発注した。

同社の発表によると、輸入した車両は半年で完売したという。この乗用車の供給は震災後の復興に貢献するとともに、梁瀬自動車の事業拡大にもつながった。

整備や運転免許取得教育にも尽力

今回の殿堂入りでは、自動車の輸入・販売にとどまらず、その普及を支える事業や環境づくりに取り組んだ点も評価された。日本自動車殿堂は選出理由として、米国車の輸入拡大に加え、ボディ製造、部品販売、自動車修理業の推進などを挙げている。

長太郎は整備業界の発展に向けて業界団体の設立などにも尽力し、運転免許取得者の育成にも力を注いだ。輸入自動車協会の初代会長、全国自動車整備組合の理事長、日本機械輸入協会の会長なども務めている。

親子で日本自動車殿堂入り

梁瀬 長太郎氏(写真:左)と、2代目社長・会長を歴任した梁瀬 次郎氏(写真:右)。
梁瀬長太郎氏(写真:左)と、2代目社長・会長を歴任した梁瀬次郎氏(写真:右)。

1945年、長太郎は梁瀬自動車の社長職を次男の梁瀬次郎に譲り、会長に就任した。その後は親子で戦後の復興と事業の再興に取り組み、1956年6月11日に逝去した。

2代目社長・会長を歴任した次郎は、2001年に日本自動車殿堂の初代殿堂者として選出されている。今回の長太郎の選出により、親子2代での殿堂入りとなった。

なお、ヤナセは2026年10月1日に持株会社体制へ移行し、商号をヤナセホールディングスに変更した。現在はグループ全体の戦略立案と各グループ会社の経営統括を担っている。