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PDK:Porsche doppelkupplung
眠っていた技術を発掘
ライナー・ヴューストは、どのような経緯でPDKの開発に携わったのか尋ねられると、申し訳なさそうに手を挙げながら、苦笑いを浮かべた。
「あれは尊敬すべき仕事でしたが、同時に非常に厳しいハードワークを強いられました。まだ私も若造でしたから、そのストレスは凄まじかったです。ただ、素晴らしいチャンスでしたし、今思えば最高の時期だったとも思います」
ヴューストは、1971年にトランスミッションのテストエンジニアとしてポルシェに加入。その10年後、まだ35歳にもなっていない時期に、デュアルクラッチ・トランスミッション「ポルシェ・ドッペルクップルング(PDK)」の開発を担当するテクニカルマネジャーに就任することになった。
そもそもPDKのアイデアが生まれたのは、1960年代後半。1980年代に入り、そのアイデアが掘り起こされ、ヴューストは自動車史に残る革新技術に携わることになった。
「ふたつの技術が持つ長所を組み合わせたのがPDKです。つまり、マニュアル・トランスミッションの効率性と、フルオートマチックの潜在的な可能性です。ただ、当時のオートマチックはまだ弱点も多い技術でした。私たちのような小さなチームにとっては大きな挑戦です。それでも、この課題を解決しようとする情熱と、現実的な対応が功を奏したことは確かでしょう」
ピエヒに投げかけられたPDKのアイデア
1960年代後半、ポルシェはすでにマニュアル・トランスミッションに関するあらゆるノウハウを獲得していた。356に搭載したシンクロメッシュ機構を開発したことで、マニュアル・トランスミッションに大きな技術革新をもたらしていたのだ。ポルシェのトランスミッション開発部門は、次なるターゲットとしてデュアルクラッチ・トランスミッションの開発に意欲を燃やしていた。
ヴューストは、天才エンジニア、イムレ・ゾッドフリッド(Imre Szodfridt)が手がけた古いトランスミッション開発プロトタイプが倉庫に眠っているのを発見した。1960年代末、ゾッドフリッドは当時のポルシェにおける開発責任者だったフェルディナント・ピエヒに、デュアルクラッチ・トランスミッションのアイデアを投げかけていたのだ。ピエヒは元アウディ会長、元フォルクスワーゲン会長であり、ポルシェ917やアウディ・クワトロ、ブガッティ・ヴェイロンなどを手がけた伝説的エンジニアでもある。
「ゾッドフリッドは非常にクレバーな人物だったので、彼が行っていた基礎的な研究・開発は私たちを助けてくれました」と、ビュスト。ただ、1960年代から1970年代初頭の段階では、高性能な電子制御機器や油圧バルブは実用化されていなかった。
「倉庫に眠っていたゾッドフリッドのトランスミッションを持ち出して、空気圧で作動していたシステムを油圧式に改良しました。未知の領域に踏み込む、かなり複雑な作業でしたが、結果はすでに量産目前といったレベルに達していました」
ポルシェ 944 ターボに搭載された「PDK」
1980年代初頭、ヴューストは944 ターボにPDKを搭載し、テストを行った。そして、そのPDKのテストに使われた944 ターボは、今もポルシェには残っている。そのセンターコンソールには、PDKのシフトレバーが鎮座。「-」マークはレバーを押すことでシフトダウン、「+」マークはをレバーを引くことでシフトアップすることを意味する。
PDKは奇数段と偶数段の2本のトランスミッションシャフトが存在し、それぞれにクラッチが取り付けられている。走行時は常にどちらか一方のみが作動するため、駆動を遮断することなくスムーズな変速が可能になるという触れ込みだった。
ヴュースト率いる開発チームにとって、ポルシェ 944 ターボでのテストはあくまでも通過点に過ぎなかった。当時のポルシェにおける開発責任者、ヘルムート・ボットはモータースポーツに活用できる技術は、すべて厳しいレース環境でこそテストすべきという信念を持っていたのだ。
グループCレーシングカーの「956」に搭載
これを受けて、新開発のPDKをグループCレーシングカー「956」に搭載、実際のレーストラックで試すことにった。PDKを試したハンス=ヨアヒム・シュトゥックは、すぐにこの新たな技術の可能性に気づいたという。
「エンジンの駆動を遮断することなくギヤチェンジを行うことができました。それまでより速く走ることができたのです」と、スタックは振り返る。そして、彼は通常のシフトノブではなく、ステアリングホイール付近にシフトセレクターを付けるという画期的なアイデアを思いついた。
「全開走行時、ステアリングから手を離さずにギヤチェンジできたら、最高だろうと思い付いたのです」
特にコーナリング時、強烈な横Gが掛かる中、シフトレバーに手を伸ばす必要がないという利点は大きかった。途切れることのないパワーにより、ストレートエンドではより高いトップスピードに到達するだろう。大幅にラップタイムが向上することに加えて、PDKの利点は他にもあった。
「ジャッキー・イクスはいわゆる“左足ブレーキング”を編み出しました。コーナリング中に左足でブレーキをかけながら、右足でアクセルを踏み、ターボチャージャーのタービンを回すことをすぐに覚えたのです。これにより、コーナーでの立ち上がりは格段に速くなりました」とヴューストは振り返る。
PDKでは確実なシフトダウンが可能なため、シフトミスがなくなり、ドライバーはコーナー進入時により突っ込んだブレーキングも可能になった。
1986年WSPC開幕戦モンツァでデビューウイン
「しかし、まだ問題はたくさん残っていました」と、ヴューストは指摘する。ギヤチェンジのたびに、PDKはレーシングカーを前方に強く蹴り出してしまうほどの衝撃があったのだ。クラッチ制御がまだ完全ではなく、常にギクシャクとした動きを伴った。
「このギクシャクとした不自然な挙動は、当然トランスミッションやドライブシャフトに大きな負担をかけました。幾度となく、過剰なトルクが掛かったことで、パーツがマシンから吹っ飛んでしまったほどです。テストを終えて帰宅すると、『もうダメか……』と何度も諦めそうになりましたから(笑)」と、ヴューストは苦笑いを浮かべた。
開発チームはトランスミッションに改良を施し、大幅な軽量化に加えて、エンジンとの協調制御も導入。改良型PDKを搭載した962Cは、1986年シーズンの世界スポーツプロトタイプカー選手権(WSPC)開幕戦モンツァに投入された。迎えた決勝レース、ハンス=ヨアヒム・シュトゥックとデレック・ベルのドライブで360kmを走り切り、見事デビューウインを飾った。
また、PDKはラリーでも成功を収めている。1985年末にオーストリアで開催されたセンペリット・ラリーでは、PDK搭載のアウディ スポーツクワトロ S1をドライブしたバルター・ロールが優勝を飾った。ただ、レースやラリーにおける散発的な成功はあったものの、信頼性や価格など、まだ市販化にはほど遠い状況にあった。
2008年、ポルシェ 911に初めて搭載されたPDK
2000年代に入ると、フォルクスワーゲンを率いていたフェルディナンド・ピエヒが「PDK」に大きな関心を示した。1980年代、ヴューストはモータースポーツにおける成果をピエヒに報告していたのだ。「ピエヒは決して物忘れをしませんから……」と、ヴューストは笑う。
1980年代では不可能だった様々な技術革新により、大幅なアップデートを果たしたPDFがついに、市販モデルに搭載されることになった。2008年、ポルシェは911シリーズにPDKをオプションとして導入。その1年後、パナメーラの一部モデルに初めてPDKが標準搭載された。
その間、シャシー開発責任者にまで昇進していたヴューストにとって、PDKの市販化は遅れてやってきたご褒美のようなものだったという。
「PDKは、私のポルシェにおける38年間のハイライトです。多くの魅力的なプロジェクトに携わってきましたが、PDKは最も素敵な成果を手にしました。技術開発においては様々なアイデアがゴミ箱行きになります。でも、こうして実験車両はここに残っています。そして今、PDKを搭載したクルマが街中を走っているのを見ると、その中に私の一部が存在していると感じるのです」