トヨタMR2からサンバーへ……家庭の事情で乗り換えた軽ワンボックスが、スバルとのファーストコンタクト【タカハシゴーのマイ六連星ライフ vol.1】

スバルの軽バン/軽トラックのサンバーは、伝統的にリヤエンジン・リヤドライブを採用しており「農道のポルシェ」と呼び慕われた。実際、農協での取り扱いもあり農家での利用も多かったという。
自身の名前を冠した雑誌『ゲッカンタカハシゴー』を刊行するほど、バイク方面で活躍するライター・高橋剛さん。そんな"タカハシゴー"は実はクルマにもこだわりアリ! 若い頃からバイクだけでなくクルマにも親しんできているのだが、サンバーとインプレッサWRXを複数台乗り継ぐというなかなかのマニアぶり。第1回はそのスバルとの出会いについて語っていただきました。

モータースポーツが好きな僕にとって、軽ワンボックスなんて豆腐みたいなものだった。ただの四角くて白い物体。特に興味はなかったし、惹かれるものもなかったし、好きでもなく嫌いでもなく、ようするにまったくの無関心だった。いや、豆腐を食べるのは好きだな……。つまり軽ワンボックスは、豆腐以下の存在だったのである。

これは今から29年も前の話で、当時の僕は25歳ぐらいの若造だった。自分では何かが見えているような気がしているものの、実はほとんど何も見えていないというお年頃である。好きなもの、興味のあるものにはバッチバチに焦点が合うけれど、それ以外のものは視界にすら入らないという、若さゆえの「都合のいい目」だった。

クルマは形式で呼ぶ! 愛車はトヨタMR2……AW11!

しかもライトウエイトスポーツ好きで、学生時代からMR2(AW11)に乗っていて、(AW11)とわざわざ書くことから分かるように、やれAE86だ、EP71だ、EF6だとクルマを型式で呼ぶことにヨロコビを感じていたのだから、軽ワンボックスがただの四角くて白い物体にしか見えていなくても致し方ない。

MR2(AW11)はトヨタが1984年に発売した日本初の市販ミッドシップカー。既存のFF車であるE80系カローラのコンポーネンツを使用することで誰にでも手の届く価格設定を実現した。デビュー時は1.5L直列4気筒SOHC(3A-LU)を搭載した「S」(AW10)と、1.6L直列4気筒DOHC(4A-GELU)を搭載した「G」が設定された。

しかし諸々ののっぴきならない理由で、MR2を手放し、無関心だった軽ワンボックスを入手するしかない状況に陥っていた。
まず、ろくすっぽお金がなかった。編集補助のアルバイトから四輪レース専門誌の編集部に潜り込み、半年後に正社員になったと思ったら1年で辞め、いくつかの仕事を転々としながら落ち着きもお金もない時代を過ごしていた。
MR2は学生時代からガンガン乗り倒していたのでかなりヤレており、走行中に突然マフラーが脱落するなどの由々しき事態も発生し、維持が困難になっていた。

1986年のマイナーチェンジで1.6L直列4気筒DOHCエンジンにスーパーチャージャーを追加(4A-GZE)してパワーアップを図った(120ps→145ps※ネット値)「G-Limited」が追加された。エンジンとミッションといったドライブトレーンはFFカローラ(E80系)を前後逆転させてリヤシート後方に配置。フロントボンネットのみだけでなく、リヤオーバーハングにもトランクスペースを設け、実用性にも配慮している。(※写真はマイナーチェンジ前の前期型「G」)

そんな中で、家族が増えそうだった。自分の中で軽ワンボックスが豆腐からクルマに昇格し、所有対象として認識し始めたのは、結婚して2年ほど経った頃だ。そのきっかけのひとつが、カミさんの妊娠判明だった。MR2は2シーターだったから、子供が生まれて3人家族になると、当然乗ることはできない。MR2はめちゃくちゃ大好きだったが、こればかりは物理的な問題なので仕方がなかった。MR2を所有したまま別のクルマを追加するという2台持ちは、当時の自分には夢のまた夢、発想すら不可能だった。

角ばったインパネのデザインとメーターナセル左右に配置されたサテライトスイッチが1980年代の特徴で、同期であるAE86(カローラレビン/スプリンタートレノ)にも通じるものがある。マイナーチェンジでは、70系スープラにも採用されるTバールーフも設定された。最終的に1989年まで販売され、二代目のSW20にモデルチェンジする。高橋さんが所有していたのは、最終型となる1989年式のG-Limitedで、カラーはダークブルーマイカだったそうだ。

ファミリーカー兼バイク用トランポとして軽ワンボックスを選択

軽ワンボックスが我が人生において急浮上したもうひとつの理由は、モトクロスを始めていたことだ。モトクロッサーはナンバーを取れない競技車両だから、公道を自走できない。コースに行く時は、ハイエースを持っている先輩に送迎してもらったり、実家のタウンエースを借りて荷室を泥だらけにして返却したりしていた。しかし、大人として誰かに寄っかかるのは心苦しい。モトクロッサーを積載できて、安いトランポといえば、軽ワンボックスしか選択肢はなかった。

そんなこんなで、全メーカーの軽ワンボックスのカタログを入手し、荷室寸法を徹底的に調べ上げた。その結果、荷室がもっとも広く、どうにかモトクロッサーを積めそうだったのが、スバル・サンバーだった。それでも2スト125ccのいわゆるフルサイズモトクロッサーを本当に積めるのかどうかは怪しかった。
まるで関心はなかった軽ワンボックスだったが、荷室が広いクルマいうものは妙な可能性と高揚感を感じさせるものだ。電話帳みたいに分厚いカーセンサーを引っ繰り返しているうちに、だんだんワクワクしてきた。とにかく安いサンバーを探し出し、当時住んでいた埼玉県入間市から東京都保谷市あたりの小さな中古車屋さんまで見に行った。

目の前にある白くて四角い物体──サンバーを自分の次期自家用車候補として見た時は、つい笑ってしまった。なんだこりゃ、と。1mmもカッコよくないのである。リトラクタブルヘッドライトにリヤスポイラーなど、いかにもスポーティーな出で立ちのMR2とは別世界だった。シート表皮はビニールで、後部座席はヘッドレストのないリアルベンチシートである。そしてシンプルかつ暗い丸目ヘッドライト。質素の極みである。外装も内装も、状態はたいしたことがなかった。

660ccのサンバーバンがスバルとの出会い

だが、とにかく「家族とモトクロッサーを載せる」という積載性しか頭になかったから、細かいことはどうでもよかった。今になって思い返せば、1990年改訂の軽自動車規格に対応した丸目サンバーだったから、1990〜 1992年式のバンなのだろうと思う。ちなみに型式はKV4。ふーん……。

1990年、衝突安全や高速化に対応する形で軽自動車企画が改訂され、エンジン排気量は550ccから660ccに、全長も3200mmから3300mmまでに拡大。スバル・サンバーも新規格に合わせてモデルチェンジ(五代目)した。型式は2WD(RR)がKV3、4WDがKV4。この1990年から1992年までのモデルが、その後登場する「クラシック」を除き通常のサンバーとしては最後の丸目ヘッドランプとなった。

唯一気にしたのは、マニュアルトランスミッションかどうか、だった。クルマはマニュアル、焼きそばはペヤング。これは決して譲れない我が人生のポリシーである。カーセンサーで探し当て、保谷の中古車屋さんで見たサンバーは、もちろん5速MTだ。オンボロだったが機関良好とのことだったし、荷室も十分に広く、「もうどうでもいいんで好きに使い倒しちゃってください」という諦めに満ちたテキトーさが、とても楽しそうに見えた。それまでのMR2とはまったく違うヨロコビが待っていそうだった。
価格は確か35万円ぐらいだったと思う。MR2は買い取り屋さんに50万円で売り払っていたから、15万円ほど浮いた。ちょっとしたものでも食ったかもしれない。それはともかく、1995年あたりに僕はサンバーのオーナーになった。

この時期、スバルはオーナメントに小変更があり、星の配置が「昴(すばる)=プレアデス星団」そのものの形ではなくなった。
それ以前のオーナメントは「昴」「昴(すばる)=プレアデス星団」の星の配置に忠実な配置になっていた。

スバルというメーカーに対しては、ほぼイメージがなかった。購入したサンバーのフロントど真ん中には六連星のオーナメントがあしらわれていたが、それも「ふーん」だった。むしろ、「でけぇマークだな」と思っていたし、「スバルってよく分かんないし、サンバーもオンボロだし、すぐ壊れるかもしれないよな〜」と、ついJAFの会員になったほどだ。

だが、この時の35万円のオンボロサンバーを起点に、マイ・六連星ライフは急加速することになる。それは、自分でも驚くほどの勢いだった。

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著者プロフィール

高橋 剛 近影

高橋 剛

ツーリングやサーキットに林道と、ジャンルを問わずバイクならなんでも楽しみ、サンバーと初代インプレッ…