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トヨタのWRCマシンといえば「セリカ」!
いまでこそトヨタのWRC活動における主役は「GRヤリス」だが、1970年代前半の活動開始からその活動を支え続けたのは「セリカ」だ。
そんなセリカの黄金期は、第5世代となるST185型GT-FOURによって作り上げられた。そして今回は、1995年に藤本吉郎選手の手によりサファリラリー日本人初優勝の栄冠を手にしたモデルの走りを、助手席ではあるが体験するという貴重な機会に恵まれた。
ちなみにこのST185はそれまでトヨタが所有していた個体を吉本選手が譲り受けたもので、当時のトヨタ・チーム・ヨーロッパ(TTE:現トヨタ GAZOO Racing ヨーロッパ)に在籍したジェラール・フィリップ・ツィジック氏が率いる、ドイツのCAR-ING社でレストアが行なわれた(https://motor-fan.jp/weboption/article/98386/)。
そしてレストア後は後藤本氏が専務取締役を務める「TEIN(テイン)」によって走行可能な状態にまでコンディションが整えられ、今回同社の試乗会における実に大胆なアトラクションとして、同乗走行が開催されたという運びである。
戦う“マシン”のまさに“コックピット”! エンジンサウンドに高まる期待!
助手席のドアを開け、サイドバーをまたぐようにしてコックピットに潜り込む。ハーネスを締め上げ、スタンバイオーケー。スターターボタンと共にパドックには爆音が鳴り響いたはずだが、インカム付きのヘルメットはそうしたノイズのほとんどを遮断していた。
微かに聞こえる、エンジンのうなりとトランスミッションの駆動音。そして「さあ行きましょう」と合図してくださった藤本さんの声が、これまで経験したどの無線よりもクリアに聞こえた。
藤本さんがシフトを1速に入れると、車体はピョコン! と飛び跳ねた。それと同時に、あのST185が動き出す。もうそれだけで頬筋が緩み、顔がにやけてしまう。
いよいよ発進! エビスサーキットに踊り出すグループAセリカ
トヨタ内製のCT26タービンを搭載した直列4気筒ターボ「3S-GTE改」のエンジンサウンドは低くうなる感じで、これをX-TRACK(Xトラック)製ドッグミッションの高周波がかき消していた。アクセルを踏めばその振動にも逐一反応し、加速と共に“ヒャッ ヒャッ ヒャーッ”と、ヒステリックな金切り声を高めて行った。
小雨交じりの路面に対して、グラベル用のラリータイヤを履いた出足こそ登り坂でホイルスピンを演じたものの、その後はまったく危なげなくエビスサーキット東コースをひた走るセリカ。藤本選手のドライブが極めてジェントルだったこともあるが(数千万円のレストア費用が掛かった貴重な個体なのだから当然だろう)、ストロークフルな足周りのおかげで、トランスミッションの音以外はいたって快適な乗り心地だ。
出力特性も、身構えたよりずっと普通だった。
それもそのはず、エンジン自体はグループAの規定から、アンダー300ps程度まで抑え込まれているのだ。グループAと聞くと世代的にはR32型スカイラインGT-Rの600psオーバーというスペックが想起されるし、また同じ3S-GTEを搭載した全日本GT選手権時代のスープラが500psオーバーを達成していたから、そのギャップには正直驚いた。
満タンではないにしろトランクには140リッターの燃料タンクとスペアタイヤ、そしてリヤハッチにももう1本のタイヤを載せていたから、その加速はモンスターというよりも手の内にある感じだ。市販のGRヤリスと、どっちが速いだろう?
とはいえアクセルを目一杯踏み込んでもらったときの加速は気持ち良く、その加速を途切れさせないドッグミッションのダイレクトなシフトチェンジには、競技車両の威厳があった。
コーナーでのパフォーマンスは、その乗り心地の良さに反して、思ったよりロール量が少なかった。ただこれは低温のターマック路面にグラベル用のラリータイヤがマッチしきらず、高いコーナリングフォースが出せなかったためだろう。とはいえコーナーからの脱出では、4WDのトラクションとディファレンシャルの効きの強さが、挙動を安定させているのは少し感じ取れた。
ステアリング握る藤本吉郎氏から見たサファリラリーとセリカとは?
総じてST185 セリカ GT-FOURの初体験は、スピードという観点では意外にもフレンドリーな印象と共に終わった。またそのハンドリングも、スピードラリーマシンとしてのピーキーさなど、一切感じさせないほど穏やかに映った。
しかしこれがセリカGT-FOURの、真の実力なのかといえばよくわからない。というわけで筆者は同乗走行を終えたあと、藤本さんにそのキャラクターを確かめてみたのだが、そこでは納得の答えが返ってきた。
「サファリで一番重要なのは、やっぱり耐久性なんです。クルマ自体はギヤ比の関係から、最高速も200km/h程度しか出ません。しかしステージによっては、ナイロビのパイプラインロードというのですが、15m幅で30kmの荒れた直線を、その200km/hでずっと走り続けるんです。
そこで厳しかったのは、タイヤの温度です。荒れた路面を200km/hで走り続けることで、これが120℃を超えてしまうときがある。するとパンクというか、ブリスターが発生してしまうわけですね」
藤本さんいわく重要なのは、マシンを速くすることではなくて、当時のラリータイヤの性能を、可能な限り高く引き出し続けるということだった。しかもその車体には、前述した通り140リッターのガソリンと、スペアタイヤと工具が積み込まれているわけである。
よってマシンには、タイヤ温度をなるべく上げないセッティングが施された。
「たとえばアライメントは、基本トーゼロです。ハンドリングがどうこうではなくて、タイヤを引きずらないことが重要だからです。ターンインが鈍ければ、ドライバーがスピードを落として曲げる。ステアリングインフォメーションがなんだという世界ではないんです」
同様に、マシンをいたわることも最重要課題だった。
「私はレッキで3000kmのコースを8周したんですが、当時はレッキでも本番と同じクルマが使えたんですね。そしてここで、セリカの耐久性を確認しました。
レッキ4周で1台のクルマを消費するから、合計2台のクルマを使ってその限界を見極めました。限界まで攻めて走るとフレームが歪んで、最後はフロントガラスが割れてしまう。そのポイントをいかに超えないかが重要で、それをレッキで確認したわけです」
最後は物量作戦だ。
当時TTEは総勢200人のスタッフがサファリラリーに参加しており、サービストラックは100台。そしてヘリはもちろんセスナまでが用意された。
「パンクをするとヘリコプターがタッチダウンできる場所を見つけて、メカニックが降りてきてタイヤ交換をしてくれるわけです(笑)。そういう時代でした」
こうしてセリカGT-FOURは95年のサファリを無事にゴールまで駆け抜け、藤本さんは日本人初のウイナーとなったわけだ。
このセリカが扱いやすそうな、やもすれば凡庸なマシンに思えてしまうその影には、サファリという過酷なステージへの適応という、壮大なテーマ隠されていたというわけである。
1995年サファリラリー優勝車のディティールを写真でチェック!
サファリラリーは他のラリーと違い動物との衝突の可能性が高いため、アニマルガードが装着される。また、ラジエーターグリルに枯れ草がこびりつきオーバーヒートの原因になることから金網も装着される。
また、コースをクローズしないため被視認性を高めるウイングランプを装着するほか、大雨でできる水たまりや川越えの際に吸気を確保するシュノーケルを装備する。
コドライバー(ナビゲーター)はTTE監督のオベ・アンダーソンが現役ドライバー時代にコンビを組んだこともあるベテランのアーネ・ハーツが務めた。
WRCのスバルワークスのイメージ強い「555」タバコが大会のメインスポンサー。香港-北京ラリーなど、メインターゲットであるアジア圏を中心にラリーの冠スポンサーになることも多かった。