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日本の「MOONEYES」創業者・シゲ菅沼氏に話を訊く!
「講釈師、見てきたようにウソをつき」という言葉があるが、これはライターにも当てはまる。安楽椅子探偵よろしく断片的な情報とわずかな資料だけで明晰な頭脳を駆使してバシッと結論を出し、原稿が書ければ良いのだが、現実には資料や書籍と格闘し、電脳空間の海で雑多な情報に溺れそうになりながら、それらをまとめてなんとか1本の記事にまとめている。
2023年5月に公開された「MOONEYES (ムーンアイズ )」の歴史をつづった記事もそのひとつ。資料やネットなどから得た断片的な情報を精査し、足りないところは想像力で補いながら原稿にまとめたが、書き終えてみると若干の消化不良があることは否めない。
そこで改めて日本におけるMOONEYES成立の真相を求めて代表のシゲ菅沼氏にインタビューした。
横浜で生まれ、東京で時代の先端を行く若者文化を吸収
横浜・本牧にある「MOONEYES AREA-1」。関東に住むアメ車やカスタムカルチャー好きならお馴染みのMOONEYESの総本山だ。
1階にあるアパレルやグッズコーナー、2階にあるパーツコーナーのさらに上、STAFF ONLYと書かれたプレートの奥の階段を登ると3階には本社オフィスがある。指定の日時に赴くと、オフィスの一角、ガラス製のパーティションで区切られた社長室にその人はいた。「いらっしゃい。今日は僕に聞きたいことがあるんだって?」そう言って温かい笑顔でシゲ菅沼氏は出迎えてくれた。
さっそく以前の記事についての感想をシゲ菅沼氏に聞いてみる。すると「よく調べられたと思います。大筋では間違いがありません」との言葉をいただいた。だが、やはりリサーチ不足やニュアンスの違いなどはあったようで、今回はそのあたりを中心に話を伺うことにした。
「横浜はたしかにボクの生まれ故郷ですし、大好きな街です。ですが、学生時代は都内の学校に通っていたため、青山や原宿あたりの東京文化に若い頃は大きく影響を受けたように思います」
開口一番、シゲ菅沼氏はこのように語る。やはり直接、本人に聞かないことはあるものだ。
「アメリカに興味を持つようになったのはクルマやバイクを通じてです。ボクの兄がクルマ好きだったこともあり、カーグラフィックやオートスポーツのほかに、アメリカのカー雑誌が家に何冊もありました。それを見てクルマへの憧れ、とくにアメリカ車へのを強くして行きました」
「免許証を取る順番から言えばクルマよりも先にバイクになりますよね。高校生のときに排気量制限のない自動二輪免許を取得して、最初に手にした愛車がヤマハDT250で、そのあとホンダCB500に乗り換えました。本当は陸王が欲しかったのですが、もちろん学生に買えるはずもなく、手ごろな中古車を買ってハンドルを変えたり、タンクをメッキしたりして楽しんでいました」
「当時バイクをカスタムするというと暴走族仕様にするか、アメリカを意識してチョッパー、カフェレーサーにするしかなかったわけですが、後者は圧倒的に少数派でした。でも、ボクは暴走族がにがてで、ああいう改造がカッコイイとは思えなかった。友達も同じような感性の持ち主だったこともあり、オシャレに愛車をカスタムして休日になると青山のユアーズや原宿あたりに集まって食事したり、遊びに行ったりしていましたね」
初めての愛車はVWタイプII! そして憧れのアメ車・サンダーバードに乗る
そんなシゲ菅沼氏がクルマを手に入れたのは大学生の頃だったという。最初に買ったのは「ワーゲンバス」の愛称で知られる1967年型VWタイプIIのアーリータイプだったそうだ。
「1970年代当時、アメリカ西海岸ではサーファーバンが流行り出しましてね。ボクもそれにすごく憧れました。それでダッジやフォードのフルサイズバンが欲しかったのですが、正規輸入がされていなかった上に、たとえ国内で売り物を見つけたとしても、高くてとても手が出せなかったでしょう。日本車のハイエースやボンゴなどをベースにすることも考えましたが、当時のボクにはいまひとつピンとこなかった。それでたまたま見つけたのが10万円で売られていたタイプIIだったというわけです。このクルマは気に入っていたのでカスタムして3~4年くらい乗りました」
「そして、1976年にたまたま埼玉で1960年型フォード・サンダーバード(二代目スクエア・バード)が3万円で売られているのを見つけて購入します。最初は書類なしの状態で購入したのですが、あとから書類が見つかったとの連絡が入り、書類代として7万円を渡して合計で10万円で購入しました。このクルマがボクに取って初めてのアメリカ車となりました」
「ボクのサンダーバードはディーラー車で、内外装ともに赤でした。年式相応にヤレや不具合がありましたが、板金屋さんに凹みだけで直してもらってオールペイントは噴霧器を使ってDIYで塗装しました。サンダーバードが10万円で売られていたなんて現在の感覚では信じられないかもしれませんが、オイルショック後ということもあり、古いアメリカ車は捨て値で売られていて、タマ数もたくさんありました。今から思えばいい時代だったかもしれません」
愛車の部品を求めて渡米! アメリカン・モーターカルチャーの真髄を知る
「ボクが初めて渡米したのは1977年3月のことです。大学3~4年の春休みに西海岸へ赴き、2ヶ月ほど現地での生活を満喫しました。その目的はサンダーバードの部品を購入するためでした。ディーラーやアメリカ車の専門店でも部品のストックがなく、欠品した部品を買い揃えるためにアメリカを訪れたのです」
その際に本物のドラッグレースを間近で見てその迫力に圧倒されます。そして『来年にまた来よう』と決意し、翌年大学卒業後、シゲ菅沼氏は南カリフォルニア大学(SCC)へ留学することになる。それが愛車サンダーバードとの別れとなる。
「ボクのサンダーバードは1955年型から歴代モデルをコレクターの方に60万円で買い取ってもらいました。このクルマには後日談があります。MOONEYESのビジネスも軌道に乗った2000年頃、件のコレクターの方から『手放した昔の愛車を買い戻さないか?」と声をかけてきました。ボクはふたつ返事でOKを出したのですが、引き取ったサンダーバードと再会すると、なんと手放した状態のまま。貼っていったステッカーから車内に残したものまで全て当時のままでした。どうやら、ボクから買い取ったあと、彼はそのまま倉庫に仕舞い込んでしまったようです」
「レストアを得意としていたショップのオーナーということで、ある程度は手が入っているものと期待していたのですが、これにはちょっとガッカリしました。その後、エンジンをリビルドし、不具合箇所を修理してAREA-1の店頭に展示していたのですが、再び心臓部が不調になったことで現在は修理に出しています。ここ数年、姿を見ていませんが、いずれまたボクの手元に帰ってくることと思います」
留学時代はエルカミーノで西海岸生活を満喫
アメリカに留学したシゲ菅沼氏は日本と同じく現地でもカーライフを大いに楽しんでいた。
「西海岸でアシに買ったのが1968年型エルカミーノです。このクルマは昔から欲しかったクルマで、留学生活でようやく手に入れることができました。今と違って当時はプレミアなどつかない、ただの中古車だったのでリーズナブルな価格で手に入れました。自分のものにしてからは不具合箇所を直したり、ホイール&タイヤを交換して楽しんでいましたよ」
「このクルマを通じて街のカーショップの人間やクルマ好きの友人ができました。ただ、ボクが『アメリカの父』と呼んでいるディーン・ムーンとは、このときはまだ出会っていません。もちろん、ブランドについては知っていましたし、MOONEYESの最盛期は1970年代以前ということもあり、1978年当時ボクが好きなドラッグレースからはだいぶ遠ざかっていましたし、エルカミーノに使えそうなパーツは売っていなかったので、そもそも縁遠い存在だったのです。
Dean MOONと出会うのは大学を卒業し、日本で就職してからです。当時乗っていたトヨタ・ハイラックスに装着するために、MOON DISCを買いにDean MOONの店を訪れたことがきっかけでした」