トヨタ2000GT、市販化に向けて欧州ジャガー、フェラーリを視察! 【TOYOTA 2000GT物語 Vol.24】

四輪車の試作経験はあったが車体製造はゼロからのスタートだったヤマハ発動機。少量生産の本格スポーツカーを生産するための技術的ヒントを得るために、新任の長谷川部長は単身、欧州へ視察に飛んだ。
REPORT:COOLARTS

欧州のカロッツェリアを視察する

イギリスを代表するスポーツカー、ジャガー・Eタイプは1961年のデビュー。ヤマハの長谷川部長が訪問した時期に生産されていた。

トヨタとの打ち合わせで技術用語が通じない

1965年10月の第10回東京モーターショーに参考出品されたTOYOTA 2000GTの試作車は大きな反響を呼んだ。そのクリーム色の流麗なボディに人々は魅了され、ある自動車雑誌は「ショーのプリマドンナとして輝かしくスポット・ライトを浴びて立った」と表現した。

この反響を受け、TOYOTA 2000GTをヤマハ発動機で生産し、市販しようという話がその年の終わりに持ち上がった。静岡県磐田市のヤマハ発動機本社に新工場を建設し、そこで生産することが決定した。

TOYOTA 2000GTのためにヤマハ発動機に新たな部署である自動車部が発足。のちにヤマハ発動機の社長となるエンジニアの長谷川武彦に部長就任の辞令が下ったのは1966年2月のことだった。

長谷川はそれまで二輪一筋の技術者だった。オートバイのエンジン開発を担当するとともに、ヤマハの世界GPチームの監督を務め、1964年には世界GPロードレースの250ccクラスで初のメーカー&ライダーチャンピオンを獲得。翌年も2年連続でチャンピオンを獲得していた。

「なんで私が四輪何ですか?」と、長谷川は当時の川上源一社長に訊いた。すると川上社長は「二輪のレースで世界に挑戦し、世界のレベルや競争がどういうものかわかっただろう。それを糧に、今度は日本初の本格スポーツカーの生産という新しい世界に挑戦しなさい」と言ったという。実績のあるエンジニアでも、未知のものへの挑戦には不安が付きまとうものだ。

果たして長谷川の不安は現実のものとなった。二輪と四輪は違う。しかもヤマハとトヨタでは企業文化も技術用語も違う。トヨタの担当者と打ち合わせをしても、四輪の世界で使う用語が二輪とはまったく違い、言葉が通じない。

トヨタの上層部から質問されてもその質問の意味さえ分からず、答えることが出来なかった。そんな苦しい思いをしながら、長谷川はTOYOTA 2000GTの生産に立ち向かっていったのだ。

ポルシェとフェラーリの工場も視察

当時のヤマハにとって、エンジン製造は二輪で経験と実績があったものの、四輪の車体関係は試作のみの経験しかなく、製造に関してはゼロからのスタートだった。

TOYOTA 2000GTの試作車は、職人がグリッド木型から鉄板を叩いてボディパネルを形作る手鈑金で製作が始まった。本格的な生産に移行しても少量生産車のTOYOTA 2000GTは、量産車のようにプレスで大きな部品を作って組み立てるのではなく、大まかな部品だけプレスで成形して、あとは手作業で進められていった。そのため、高度な鈑金技術を持つ職人を集めるのに非常に苦労したという。

自動車部長となった長谷川は、当時、同じような少量生産のセンチュリーを作り始めていた関東自動車工業に見学に行ったり、トヨタからもいろいろアドバイスを受けたりしていた。しかし、試作1号車が完成しても、トヨタの検査員のチェックになかなか合格できない。ダメ出しの連続で、塗装をはがしてイチからやり直すような状態だったという。何度となく大きな壁にぶつかった。

そんな時、トヨタから「ヨーロッパにはカロッツェリアという小規模な自動車組み立て工房がありますが、ヤマハさんは視察に行きましたか?」と訊かれた。

長谷川はすぐさま単身、ヨーロッパへ飛ぶことにした。そこでは二輪の世界GT時代に培った人脈が頼りになった。ヤマハチームではシェルのガソリンを使っていたので、そのレーシング部門の部長に連絡を取り、「スポーツカーを勉強したいので、どこかの会社を紹介してほしい」と依頼したのだ。

最初はイギリスのジャガーとアストンマーチンを訪問した。ヤマハの監督が来たということで、大いに歓迎されたという。そこで「部下にも勉強させたいので製造工程の写真を撮ってもいいですか?」と頼むと、なんと「どこを撮ってもいいですよ」と言う返事が返ってきた。日本でのボディ製造で困っていた部分、滑らかな曲線の仕上げや、どんな工具を使っているのかなど、こと細かく撮影することが出来たのだ。

さらにその場で次の訪問先の会社に電話を入れてもらい、名刺に紹介状を書いてもらうという方法で、長谷川はレンタカーで移動しながらひとりで視察を続けた。イギリスでは、ローラやフォードGT40を作っているフォード・アドバンスド・ビークルなどのレーシングカー製造会社も視察した。

さらに長谷川はドーバー海峡を渡り、フランスのアルピーヌ、当時の西ドイツのポルシェ、イタリアのフェラーリなどにも足を運んだ。最終的には10社以上回ったという。

当時のフェラーリは、1966年のパリ・サロンでロードカー初のDOHC+ドライサンプのV12エンジンを搭載する275GTB/4を発表した。

欧州視察旅行を終えて長谷川が持ち帰った大量の写真を、現場のスタッフは全員で見ながら検討に入った。そこに写っていた少量生産のための工具や作業方法は、壁にぶつかり悩んでいたヤマハの現場にとって非常に参考になるものものばかりだった。まさに“百聞は一見に如かず”である。

ゼロからスタートしたTOYOTA 2000GTの市販化は、こうした地道な努力によって徐々に動き始めた。しかし、実際に市販1号車がラインオフするまでには、まだまだ超えなくてはならない困難な技術的ハードルがいくつも待ち構えていたのである。(文中敬称略)

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