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「センチュリー」半世紀の伝統
発表会会場は入り口から黒い巨大なパネルで覆われた通路から始まり、そこにはセンチュリーにまつわるさまざまな“言葉”が車名ロゴと鳳のエンブレムと合わせて掲示されていた。これまでのどのトヨタ車の発表会とは異なる演出はさすが、同社の最高級車センチュリーのための設えだ。
そしてその言葉の向こうには、三世代のセンチュリーが並べられていた。そのスタイルには受け継がれる伝統を強く感じさせる。また、各モデルの背後にはそれぞれの開発にまつわる言葉が、やはり大きく掲げられていた。
1967年登場の初代のパネルに掲げられた言葉は以下のとおり。
明治100年を迎えた日本の実力を世界に示す、格式高いクルマとして誕生。
センチュリー(世紀)と名のり、宇治平等院の鳳凰をシンボルマークに。
トヨタの技術の粋がそそがれ、手づくりのように1台1台入念に仕上げられている乗用車。
たくさんの方々にご愛用いただける車ではない。
日本の誇りと実力を示しうる、選ばれた方にだけお乗りいただく車。
二代目センチュリーのパネルはこのように。
誕生から30年を経て初めてのモデルチェンジ。
最新の技術と真摯な車づくりの姿勢が刻み込まれたこの車には、
人をもてなす心の真実が、唯一無二のしつらいとして結晶。
「大切な方を大切にお運びする」という使命を果たすことで、
21世紀に向けた「調和ある成長」を願い、日本の進むべき道を走り続けた。
そしてその伝統を受け継ぐ三代目。
3代目に託された使命は、「継承と進化」
磨き続けてきた「匠の技」を継承することで、さらなる高みへ飛躍。
「大切な方を安全に心地よくお連れする」使命を果たすため、進化した先進技術を惜しみなく投入。
誕生以来、幾度の技術革新と熟成の時を重ねながら、至高の存在へ走り続ける。
プレゼンでも語られたセンチュリーの受け継がれる哲学
プレゼンでは取締役・執行役員 デザイン領域統括部長サイモン・ハンフリーズ氏からセンチュリーのヒストリーが、記録映像と共に語られた。1950年代半ばから1960年代初頭、クラウン(1955)、コロナ(1957)、パブリカ(1961)と乗用車を開発していく中で、高級車の分野は未だ届かざる高い峰だった。クラウンエイト(1964)では到底届かないほどの。
その高い山を乗り越えたのが初代センチュリーだった。トヨタ初の「主査」中村健也氏の技術的情熱と、豊田章一郎氏のこだわりの結晶だ。
その伝統を受け継ぎながら、最新の技術を取り入れ、センチュリーの本質を追求したのが現行の三代目センチュリー。そして、この新型センチュリーは一方で、変化していく自動車を取り巻く環境、変化してくユーザーに応えるべく誕生した新たなセンチュリーの形となるものだ。
威風堂々たる新型センチュリー
これまでのセンチュリーに対し、リヤゲートを備えたSUVスタイルとなった新型センチュリーは、その背の高さも相まってさらに堂々としたスタイルとなっている。2500万円という価格も然ることながら、スタイルでも佇まいでも雰囲気でも、マセラティ・ベンテイガやロールスロイス・カリナンにも引けを取りことはないだろう。
これまでセンチュリーSUVやセンチュリークロスと呼ばれていた同車だが、この発表会において車名はあくまで「センチュリー」と発表された。SUVでもクロスオーバーでも無く、あくまで新しいセンチュリーの形であるという認識だ。
そして、センチュリーの革新を感じさせるのがGRMNの存在だ。これまでのセンチュリーにはないスタイルに、ホイールから覗く赤いブレーキキャリパーがそれを強く感じさせる。
発表会には多くのジャーナリストやメディアが詰めかけ、その注目度の高さを窺わせた。これからさらなる情報が公開されていくことになるだろう。
日本が世界に誇る最高級車。新時代のショーファードリブン。その行先を引き続き見届けていきたい。