日産がサファリラリー挑戦で得たものとは? 未来はアフリカを見ろ!? その真実をベテランジャーナリストが語る その1【清水和夫×高平高輝クロストーク「南南西に進路を取れ!」 】

清水和夫×高平高輝クロストーク「南南西に進路を取れ!」
清水和夫×高平高輝クロストーク「南南西に進路を取れ!」
自動車業界にとどまらず、多方面に思考がひろがっているモータージャーナリストのふたり、清水和夫氏と高平高輝氏によるクロストーク「南南西に進路を取れ!」。日産ヘリテージコレクションを見学しつつ、南南西には何があるのか…。さてどんな話が飛び出るのか? 言っていいのか書いちゃまずいのか…。まずはふたりの話を聞くしかない。
TALK:清水和夫(Kazuo SHIMIZU)、高平高輝(Koki TAKAHIRA)/PHOTO:前田惠介(Keisuke MAEDA)、清水和夫、レーシングオン誌、オートスポーツ誌/ASSIST:永光やすの(Yasuno NAGAMITSU)

なぜ日産ヘリテージコレクション? 南南西には何がある?

電気自動車? ハイブリッド? 未来のクルマはどうなる?? もしそんな想いを馳せるならば、まずは日本の自動車社会がどんな時代を経て、どんな技術と熱量でクルマを生み出してきたのか…。そこのところの知識を入れたうえでないと未来は見えない。
「タイトルはね、『南南西に進路を取れ』でいく」
そう、清水和夫氏からの提案があった。南南西…沖縄? タイ? その先…??
「その意味を知りたければ日産の歴史が詰まるヘリテージコレクションへ行こう」(清水)。

清水和夫×高平高輝クロストーク「南南西に進路を取れ!」
清水和夫×高平高輝クロストーク「南南西に進路を取れ!」

モータースポーツで技術を磨く意味

清水:日産自動車、祝90周年!
高平:「日産自動車」と名前を変えて90周年ですね。
清水: で、ココは日産ヘリテージコレクション。子安の横浜工場には日産エンジンのミュージアムもある。知ってる? ソコもいいよ、もう建物が文化遺産。
高平:これだけのものに包まれていると、脱線してください!と言わんばかりの。でも真面目な話をしましょうっていうことなんですよね?

日産ヘリテージコレクション
日産ヘリテージコレクションのかつてのラリー車コレクション。圧巻!

清水:でもさ、なんだろう。3月30日にフォーミュラE東京を観て、熊本でクラシックカーラリーに出て。これが1926年式のブガッティからいた。ボクはクラシックポルシェ356 Speedsterで走ったんだけど、それは1953年式だからまだ若い。で、翌日は鈴鹿でF1見て。そして翌週末、昨日は全日本ラリー選手権に出て。それで思ったのは、「モータースポーツのないクルマの人生なんてつまんない!」
高平:我々はずっとそれが当たり前だと思って、それを若いころから刷り込みされて、昔のこういうレーシングカーはどんなに凄かったか?っていうことを先輩たちから聞いて、ちょっと触ったりもできて生きてきたので、1mmも疑問に思わずにここまできていますけど。でも当然、時代が下がってきて、距離が離れてくっていうのもあるし。

熊本復興クラシックカーラリー
清水さんがクラシックポルシェ356 Speedsterで参加した熊本復興クラシックカーラリー(清水和夫Facebookより))
熊本復興クラシックカーラリー
熊本復興クラシックカーラリー。主催は俳優の唐沢寿明氏(清水和夫Facebookより))

清水:モータースポーツって、敷居が高いとか特殊なものっていう見方をしているけど、100年前の黎明期を見たら、やっぱりスピードを競うことでクルマの技術っていうのは進化してきた。
高平:耐久性を証明すること。それが宣伝にも直接繋がるし。そういう時代が何年も続いたのは間違いない。

清水:戦前からレースとラリーってふたつに別れていたけど、その昔は一緒だった。パリ-ルーアンなんかね(※1894年に開催されたフランス・パリから北部のルーアン[約112km]までを走る「パリ・ルーアンラリー」が自動車レースの起源と言われている)。そういうことがなかったら現代の自動車なんて出てこなかった。モータースポーツはみんな“文化”って言い方をするんだけど、オレはそういう言い方が嫌い。文化じゃなくて、もっと自動車のオーセンティック(本物、確実、真正)な本質的なものなのかな。
高平:よくわかります。ボクも「自動車文化がないから」とか「自動車文化が育たない」とか、そういう風に言っちゃうと、もうなんて言うんですか、端っこの方はどうでもいいや!っていうあやふやな感じで話をまとめちゃいそう。

「モータースポーツ文化論」は徳大寺さんも嫌いだった

清水:亡くなった徳さん(徳大寺有恒氏)も「文化論で語っちゃいけない」って言っていたね。「リヤカー作るか、クルマ作るか」。「モータースポーツをやっていないメーカーはリヤカーだろ」っていうこと言っていた。
高平:もう本当におっしゃる通り。徳大寺さんは折に触れおっしゃっていましたよね。
清水:「レースをやってないブランドっていうのはリヤカーメーカー」って。
高平:そうそう。「本物の自動車メーカーは、モータースポーツを文化としてやるとかそういうんじゃなくて、止むに止まれずやってきた、その熱意と技術が形になる」みたいなことを常におっしゃっていました。

清水:ゴルフだって、昔のスコットランドから始まって、羊飼いがボールを打ってとかサッカーを始めたりとか。やっぱりスポーツっていうのがなんかこう、人間の持っている基本的な、進化しようとするための闘争心。
高平:本能に刻まれている。またそれも、その本能だからっていう風に簡単にそれだけ棚上げしてこれは大事って言うのではなくて、それを考えるっていうことが大事でしょうね。

清水:入口がちょっと少し長くなっちゃったけど、何が言いたかったかっていうと、レースとかラリーは決して特殊なものではなく、文化でもなく、自動車を作る人たちのもっと基本中の基本じゃないかなと思うんだけどね。やっぱり視界が良くないと速く走れないし、燃費が良くないと何百Lって燃料を積まなきゃいけないから、燃費がいいなんていうのはレースで勝つための当たり前の技術で、モータースポーツっていうのはそこはもうすごく大事。ま、安全と環境って今の時代は言っているけど。

プリンス/日産の情熱が詰まるヘリテージコレクションからアフリカを想う

清水:今日は神奈川県座間の日産ヘリテージコレクションに来たんだけど、こんなにあるとは思わなかったね!
高平:前回お邪魔したのはもう随分前で、まだ一部に工場設備が残っていた頃だったので、こんなにギチギチに!って言っていいくらい台数が多い。しかも車両も綺麗になっていて。なんかちょっと…もったいないですね。
清水:トヨタ博物館もホンダコレクションホールも行ったことがあるけど、ここまではないからね。だから、この台数といい歴史といい、60年代、70年代の日産のレースにかける情熱っていうのは凄かったね。

日産ヘリテージコレクション
サファリラリー参戦車両たち

高平:パッと見ただけで、210って言われていたダットサン1000のセダン。あれはもう50年代後半、58年とか59年。その頃から日産は日本のメーカーで1番最初に海外のレース、オーストラリア1周、モービルガストライアルに挑戦した。サザンクロスラリーの前身ね。
清水:高輝(高平)もさすがに取材はしてないよね! 生まれてないから。

高平:ドライバーは難波(難波靖治氏/NISMO初代代表取締役)さんですよ! 昔、片山(片山 豊氏/米国日産初代社長/フェアレディZ生みの親)さんから「アレ(モービルガストライアル)はオレたちが企画したんだ」って聞いたことがある。「宣伝にもなるし、いいことだ」って。

清水:今日、なんでこのサファリラリーのクルマの前にいるかっていうと、これから未来の話もしていかなきゃいけないんだけど、温故知新的に昔を振り返りながら現在地を見て、未来を語らなきゃいけない。未来、私は「南南西に進路を取る」、日本の自動車産業が向かうべき方向は、つまり“アフリカ”じゃないかなと。
高平:最初、立ち話かなんかでその言葉を聞いた時に、有名な映画にひっかけて…と思ったんです。
清水:「北北西に進路を取れ」(※1959年/アメリカのスパイスリラー映画)。

世界地図
南南西へ進路を取れ! そこには何があるのか?(グーグルマップスクリーンショット)

高平:でも、 南南西って言われてみると…ヒッチコック監督の北北西がNorth by Northwest。そうすると、South by Southwestって、それ今、テキサスでやっていて、世界一のメディアっていうか、複合ミックスイベントになってるヤツがあるじゃないですか(※毎年3月に米テキサス州オースティンで開催、世界最大級のコンバージェンス[融合]カンファレンス&フェスティバル)。
清水:映画と音楽のテックのエンターテインメント。アレは凄いよね!
高平:サウスパイサウスウエストは、日本から見ればもちろんサファリもだけど、その手前には中東もインドもインドネシアも。なるほど!と。

清水:豆粒みたいな日本なんだけど、アメリカ、ヨーロッパを北北西で見ちゃダメ。コッチ(南南西)を見ると、これからの日本の自動車産業が向かうべき方向があるのかな?と思って、今日はサファリラリー参戦車両の前。
高平:なるほど、確かに。何重にもかけていたのかな?ってちょっと感心しました。

映画に海外の自動車を取り巻く世界への憧れを抱く

横山文一のZ
清水さんの大学の先輩、憧れの「横山文一のZ」

清水:ボクが高校生の頃、石原裕次郎と浅丘ルリ子の映画『栄光への5000キロ』を見た。そして横山文一(※60年代日本ラリー界の巨匠/通称:ヨコブン)さんっていう大学の先輩がいて、ボクが大学1年生の時にヨコブンさんが4年生で、ボディが赤で艶消しの黒のボンネットにしたこのフェアレディZに乗って、当時の全日本ラリーに出ていた。そのヨコブンさんが大学の校内をドリフトしているのを教室から見ていて「かっこいいなぁ~♪」って。

横山文一
清水さんの大学の先輩、ラリースト・横山文一氏

高平:学生であのZ持ってたの、ヨコブンさん?
清水:学生だけど、何年も1学年を2年ずつやっていたから4年生でも22歳じゃなかったと思う。その「横山文一のZ」と石原裕次郎の「栄光への5000キロ」。最近は日本航空の労働組合委員長を務めた恩地元を題材にした山崎豊子さんの小説「沈まぬ太陽」、これは映画やテレビドラマにもなった。アフリカの大地って地平線に陽が沈むじゃない。地平線から太陽が出てくるじゃない。我々島国だから太陽は海から出て海に沈むんだけど、陸の地平線って見たことないでしょ。でもソレはアフリカに行けば毎日見られる。

サファリラリー
陸に沈む太陽が見られるサファリラリー

高平:ボクは確か3回くらいかな、それこそ80年代末から90年代にかけて、毎年じゃないですけど行って。やっぱりね、そういうところにでも日本人のビジネスマンや日本人のNPOとかいろんな人たちがいて。
清水:国境なき医師団もね。

高平:それから凄く印象に残ってるのは、ナイロビからモンバサ(ケニア)に行く街道の途中でボクらが走っていたら、アッチからなんか米粒みたいな砂煙がだんだん大きくなって迫ってきて、なんだろうあれ?と思ったら、バイクに乗った日本人の男のコ3人、青年協力隊だった。大丈夫かお前ら?って。
清水:へぇ~。そういうコたちは日本に帰ってきて何やるんだろうね。
高平:いや~わからない。頼もしいけど、なんか心細げだし。まさに今言った太陽が沈んで昇るところを、米粒みたいな、ホンダの125ccかなんかで。ああいうの見ると、日本人すげえなぁ!と思います。

清水:オレはやっぱり海から昇る太陽じゃなくて、陸から昇って陸に沈む太陽を見てみたいな。
高平:いいですよ~! 出ますか!! サファリラリー・クラシックって、今とんでもなく盛り上がってるラリーがあるので。
清水:オレ、行くんだったらホンモノで行きたいんだけど! ヘルメットも今回、全日本ラリー選手権用にFIAの1番厳しいレギュレーションに合ったカーボンのヤツを買った。高かった~! だけど、人生最後のヘルメットだと思って。

高平:今FIAでやっているヒストリッカーラリー選手権の中で、サファリってすごい人気があるんです。上位はフォードエスコートとかポルシェ911、これしかない。
清水:ヤバい! ポルシェって言えばダカールが3099万円で売り出され、今7000万円。もう2倍だよ! でも、ダカールといえば、これがもうなんか原点じゃない。フェアレディZもダカール仕様を出せばいいんだよ! 車高短ばっかじゃなくてさ。
高平:いや、なんか仕掛けられますよ。

日産が挑戦し続けたサファリラリー

清水:それで、日産は410(ダットサン ブルーバード 1300SS)からサファリラリーに行った。以前ココ(日産ヘリテージコレクション)にいた方に聞いたんだけど、410では勝てなかった。クラス優勝はしたけど総合はプジョーが勝った。悔しい!って言って、この510(ダットサン ブルーバード 1600SSS/1970年)で勝ったんだよね。当時の日本の自動車産業が世界で有名になった最初の出来事かな。まぁホンダはマスキー法で有名になっていたけど。もちろん第2回日本グランプリもあるけど、サファリで勝つのは相当耐久性が良くないと。

清水和夫
人生で一度、サファリラリーを走るのが夢という清水和夫さん

高平:サファリラリーの第1回は1953年、エリザベス王女が女王になったのを記念して始めた。
清水:あ~英国領、イギリス統治か。
高平:最初は「イースト・アフリカン・コロネーション・サファリ」って呼ばれていた。 エリザベス王女(当時)はケニアで女王になったんですよ。ケニアへ視察に行っていて、アバーディア国立公園の中にあるツリートップス(Treetops)というホテルに泊まっていたときにお父さんのジョージ6世が亡くなって。で、朝ホテルの階段を降りてきた時には“女王”だったっていう。

清水:このフェアレディZがモンテカルロ。で、モンテカルロになると、今度は映画『男と女』(※1966年/フランス)でフォードが出てきたじゃない。後はル・マン24時間はスティーヴ・マックィーンの映画「栄光のル・マン」(※1971年/アメリカ)、あの辺にやっぱり影響を受けているね。
高平:『男と女』のフォード・マスタングでしょ。マックイーンのGT40とフェラーリの対決。そして石原裕次郎のブルーバード。元々の原作は410時代だったんですけど、映画はこの510でやって。これで人生変わった人、いっぱいいますね! やっぱり憧れるじゃないですか、外国の、ホントに凄い自然の中を泥だらけ、埃だらけになって走って勝つっていう。こういうのはなかなか他のイベントとかスポーツではない。

第2回日本GPでのスカイライン伝説、あれは…?

第2回日本グランプリ
スカイラインがポルシェを抜いた! そのときグランドスタンドが熱く燃えた

清水:この時代は日産が黄金時代を築いていて。レースの世界だと、第1回、第2回日本グランプリでサンパーマル(プリンスR380)が出てきたり。スカイライン2000GTの生沢徹さんが式場壮吉さんのポルシェ904を1周だけ抜いたという伝説。アレ、わざと? ヘヤピンでスピンかなんかした?
高平:いやいや。「そんなことするわけないじゃん!」って式場さんは言いながら、式場さんも生沢さんも、あの頃はジェントルマンで仲良いから。何回も聞いたことあるけど、一度も教えてもらえなかった。
清水:オレも何回も聞いたんだけど。式場さん亡くなっちゃったし。
高平:式場さんはあの頃いろんなエピソードがありましたけど、それに対して一切答えないまま、持ってっちゃった。

清水:でも一周だけど、スカイラインがグランドスタンドを駆け降りてきた時に、スタンドは総立ちになった。戦後復興の自動車っていうところから、わーってこうね、すごく熱量が上がった瞬間だったよね。
高平:本当にこう、きっかけが要所要所にあったんですよね。

清水:うん。日産って、なんでレースとラリーに愚直に取り組んでいったんだろうね。やっぱり技術で世界一を目指したいっていう気持ちが強かったのかな。
高平:技術もだけど、一番こうオープンでバタ臭いというか、西洋とか世界を最初から考えていたメーカーだったんじゃないでしょうか。昔、先輩たちから話を聞いていても、宣伝広報活動とかにも、「(車両価格が)安いんだ!」とか「ウチの方が長持ちするんだ!」っていうのをアピールするだけじゃなくて、イベントとか、全国を女性と共に、女性ドライバーを一番最初に使ってパレードしたりとか。そういう先進的というか、時代に先駆けていたことを戦前からやっていたメーカーですよね。

排ガス規制やオイルショックが与えた影響

清水:70年代になって、排ガス規制とかオイルショックが来て、その辺のクルマたちがあまり元気がなくなっていて、ちょっと違う方向に行ったよね。キャブレターがなくなって電子制御になったあたりから、ひとつの山というか谷が出てきて、クルマが変わり始めた。
高平:でももうその頃、海外進出は73年の第1オイルショックくらいからみんな止めて、レーシングカーの開発なんかも途中で止まったり。その後すぐにまた戻った。日産はそのあと本当の黄金時代というか、バイオレットで4連覇、サファリ4連覇。70年代最後からですね。
清水:そうか、もう一回復活するんだ。バイオレットね。じゃあ直4 L型か。

高平高輝
ラリーを語らせたら止まらない高平高輝氏。二玄社・カーグラフィック誌副編集長、NAVI編集長、CG編集委員を経たのち2010年よりフリーのモータージャーナリストへ

高平:サファリラリーで79年から82年に4連覇ですよ。シェカー・メッタ/マイク・ドウティは有名ですよ。ラウノ・アルトーネンとか、一流どころに乗ってもらえるだけのクルマなんですよ。その頃から三菱も「ウチもやりたい」って言って、ランサーと篠塚建次郎で一所懸命食いつこうと。で、80年代に入ってくると今度はトヨタが参入してきて。あの時代はあの時代で、日本車の黄金時代。ダイハツもいたし。日本はサファリラリー、大好きですよね。サファリラリーは日本車の時代でした。
清水:そうか、70年代後半から80年代は日本車オンパレードか。あの時にもう南南西に進路を取っていたんだ。

高平:サファリラリーに行って一人前みたいな。それでアフリカに渡ったラリードライバーも多かった。
清水:藤本吉郎さんとか。
高平:その前の岩下良雄さん、岩瀬晏弘さん、柑本寿一さんとか。あの辺の日産系の人たちは現地に根付いちゃって、そこでガレージ作っちゃってる人もいるくらい。

清水:日産はワークスドライバーに日本人はいなかったよね。
高平:でも長谷見昌弘さんや星野一義さんがラリー車のテストをしていた。
清水:箱根ターンパイクを貸し切っていたんだよ。
高平:本物の、一流のレースドライバー、ワークスドライバーを使って、ラリー車もテストしていた。で、海外のそれぞれのイベントには、それに長けたドライバーを乗せるってのが当時のやり方。日本はオイルショック後、しばらく国内でラリーができない時代があって、全然ドライバーが育たなかったというか、海外へ行かないとラリーもレースもできないっていう時代がちょっとあった。それで、篠塚建次郎さんは1番良い、若い時の全盛期をちょっと棒に振っちゃった。
清水:オレはレースで食おうと思ってそれまで勤めていた会社を辞めたら、オイルショックでスバルしか乗る口がなくて! でもね、“悪妻ソクラテスを育てる”とは言わないけど、スバルのあのパワーのないクルマ(レオーネ)だったからテクニックを磨いたよね。パワーじゃ絶対に勝てなかったから。フロントにサイドブレーキが効くからサイドターンなんかできっこない。

スバル・レオーネ
スバル・レオーネで国内ラリーを走る清水和夫さん。「クルマがなんだからテクニックを磨いたね」

高平:スバルのレオーネも結構上位にはいたんですけど、それこそ、あの砂原茂雄さんとか。レオーネはサファリラリー83年総合5位で、グループAの優勝とか結構上位にはいた。でも、他は圧倒的にパワーがあるし、圧倒的に丈夫だし。年に一回サファリラリーに行くっていうのはやっぱり無理だった。年に一回ル・マンに行って勝つのが無理なように。
清水:あの頃はパワーがないから、ヨーロッパのハイスピードラリーには行けないので、とりあえず耐久性を持たせ、それでサファリから始めた。その後、高岡祥郎さんが止めればいいのにモンテカルロラリーに行っちゃった。モンテはパワー勝負だから。

高平:あの頃、スペシャルステージラリー(SS)っていうものがまだ日本にはきちんとなかっただろうし、ペースノートラリーというか。だから、モンテなんかはちょっと全然違う世界だと思うんですよね。
清水:泉アキさんもサファリラリー、行ったよね(※タレント/1984年、第32回サファリラリーにスバルチーム・高岡祥郎選手のコ・ドライバーとして参戦、日本人女性初のサファリラリー挑戦、16位完走)。

椅子
撮影時、お借りした椅子がなんと、Zとスカイラインの純正。しかもZは脚もZになっていた

清水:日産のラリーの歴史は、パルサーGTI-Rで終わっちゃったんだよな。オレこれ、テストしたんだよ。日産追浜工場内にあった特殊自動車実験課の頃。千野甫さんが作ったんだよな。で、渡邉衡三さんが実験した。ラリーに出たのは91年からだけど、テストは80年代の終わり、R32GT-Rをテストしていた時に、どさくさ紛れ(!?)にこのコ(GTI-R)も雪の中でテストしたな。トリプルビスカスとかね。
高平:これはまたちょっと、“技術の日産”が行き過ぎて、めちゃめちゃ複雑で壊れやすかったです。トランスファーのトリプルビスカスとか熱対策が大変だった。

高平:昔のサファリとかって、今と違ってどこでもサービスしてよかったんですよ。勝手に決められて、勝手に待っていることができたんです。そうすると、でっかいドイツ人が3人ぐらいで、まだチンチンのタービンとかを手袋しただけで、 ガッ!と取ってオレたちの方にぶん投げて新しいタービン付ける。物凄い乱暴な、よく言えばワイルドな、まだジュー!っていってるタービンが転がってきて、ホントにビックリしたことがありましたよ。あと、ダンパーを手で換える人もいた。工具使わずに手で縮めて。

清水:これはサンパーマル(ニッサンR380)ね。渡邉衡三さんが日産入った時。シャシーはローラ?
高平:そのまんまパクリじゃないですけど、ブラバムBT8を勉強したっていうか。
清水:ローラと言えば、今度ヤマハと一緒にフォーミュラEやるね。

日産ヘリテージコレクション
新旧レーシングカーも並ぶ日産ヘリテージコレクション
プリンス時代と日産時代
「P」と「N」、似ているけど違うという新たな発見も

高平:このマシン、プリンスのマークにしてあるんですね。でももうこの頃は日産ですよね。66年合併ですから、あ~そうか。プリンスR380とニッサンR380と名称変更して、マークは似せているけどP(プリンス)とN(日産)だ。

・・・・・・・・・
というところで、続きは後日。
その時代を知ることのできる日産ヘリテージコレクションや博物館を見る意味、なぜ南南西のアフリカへ想いを馳せるのか、その真実が話される、ハズ!

その2はこちらです。
その3はこちらから
その4(最終回)はこちらから

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著者プロフィール

清水和夫 近影

清水和夫

1954年生まれ東京出身/武蔵工業大学電子通信工学科卒業。1972年のラリーデビュー以来、N1耐久や全日本ツ…