1972年に初代が発表された「アウディ80」が誕生から50周年の節目を迎える。時代の先駆けとなったベストセラー

アウディはこのほど、1972年に発表された初代「アウディ80」が、今年で誕生から50周年という節目を迎えることを発表し、改めてこのモデルを振り返った。

「モダンではあるが、流行を追わない」デザインを目指して開発。モジュラーデザインの先駆けに

アウディ80は、ドイツBセグメントにおいてシリーズを確立。革新的な技術のパイオニアであり、トレンドセッターであり、アウディブランドにとって最初のミリオンセラーになったモデルである。アウディとフォルクスワーゲングループにとって、このコンパクトセダンの重要性は極めて明快。アウディ80はモジュラーデザインの先駆けとなった。

このベストセラーモデルが発表されてから、今年で50周年を迎える。社内コード「B1」と呼ばれる初代アウディ80は、1972年に発売されて大きな注目を集めた。高い信頼性を誇るこのモデルは、「モダンではあるが、流行を追わない」デザインを目指して開発された。この点に関して、アウディで技術開発責任者を務めていたルードヴィヒ・クラウス氏と、1964年に親会社になったフォルクスワーゲンAGは、1960年代後半に合意していた。

開発責任者のルードヴィヒ・クラウス氏は、レースカーの製作と同様、長期的な品質、剛性、強度を損なうことなく、どこで重量を削減できるのかを徹底的に検証するために、従業員にすべてのパーツをチェックさせた。その結果、非常に軽量なアウディ80は50年前に、そのスポーティなハンドリングと優れた燃費で高い人気を博した。そして1973年のオイルショックにより、まさに時代に適したクルマとなった。同年に「ヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤー」を受賞したアウディ80は、国際的な自動車ジャーナリストからも高い評価を得ている。

アウディAG技術開発担当取締役のオリバー・ホフマン氏は、先達ルードヴィヒ・クラウス氏と彼のチームが達成した偉業をこのように称えている。
「アウディ80は、非常に印象的な方法で『Vorsprung durch Technik(フォアシュプルング ドゥルヒ テヒニク=技術による先進)※』がアウディの伝統であることを示しました」
※アウディのブランドスローガン

アウディ80とその後継モデルは、常に時代をリードするパイオニアになってきた。4気筒TDIエンジン、セルフロッキング・センターディファレンシャルを備えたquattro(クワトロ)システム、デュアルクラッチトランスミッション、リヤアクスル・スポーツディファレンシャル、そして言うまでもなく初代RSモデルに搭載された5気筒ターボエンジン等は、「技術による先進」によるアウディの高度な技術を繰り返し証明してきた。

デザイナーのハルトムート・ヴァルクス氏は、1970年代の新しい客観的な手法により、初代アウディ80のデザインをまとめた。ヴァルクス氏は、1976年に当時のデザイン部門Audi Stilisticsの責任者に就任し、数世代にわたってアウディのB、C、D各セグメントのシリーズモデルの設計に携わり、時代を超越した印象的なデザインを生み出した。

アウディ80は、B1からB4まで4世代にわたって1994/95年まで生産され、その後社内コード「B5」として知られるアウディA4に名称が引き継がれ、A4はさらに第5世代に渡り進化を続ける。そして「B9」と呼ばれる最新世代には、セダン、アバント、Sモデル、RSモデルに加え、アウディA5のクーペ、スポーツバック、カブリオレの各バージョンが用意されている。

1972〜1978年:初代Audi 80 – 新しいセグメントを創出

初代アウディ80は、ミュンヘン夏季オリンピック開催の年に世界初公開された。アウディは1972年7月にこのニューモデルをメディアに発表し、オリンピック開催後の9月から販売を開始した。社内コード「B1」は、コンパクトセダンまたはBシリーズと呼ばれる新しい市場セグメントを確立した。新開発されたこのミッドサイズカーにより、当時のアウディブランドのモデルラインナップが完成。このモデルのテクノロジーには、数多くの新しいソリューションが採用されており、それらは、間もなくフォルクスワーゲングループのモデルにも流用された。

一貫した軽量デザインと革新的技術

2ドアのベースモデルの車重は、わずか835kgに過ぎなかった。その当時、アウディの技術開発責任者を務めていたルードヴィヒ・クラウス氏は、開発目標のひとつとして厳格な軽量構造を掲げていた。ホイールベースは2.47m、全長は4.18mと、非常にコンパクトなセダンに仕上げた。

サスペンションエンジニアのデトレフ・バンホルツァー氏は、ヨーロッパの市販モデル初となるネガティブステアリングロールラジアスを採用。これは、ブレーキング時の安定性を大幅に向上させるソリューションだ。さらに、X配管式の2系統油圧ブレーキを採用し、乗員および他の道路ユーザーの安全を前面に打ち出した。リヤサスペンションには、スプリングダンパー付きのトーションクランクアクスル、フロントサスペンションには、マクファーソンストラットおよびウィッシュボーンが採用された。

エンジンは、駆動輪であるフロントアクスルの前に縦置きされ、その後方には4速トランスミッションが搭載された。市場導入時には、1.3〜1.6ℓの4タイプのエンジンが設定され、出力の範囲は40kW(55ps)~ 74kW(100ps)。パワフルでシンプルな構造の4気筒エンジンのハイライトは、歯付きベルトドライブとメンテナンスフリーの油圧タペットを備えた、オーバーヘッドカムシャフトバルブ駆動システムだった。ルートヴィヒ・クラウス氏は、モジュラー設計の4気筒オーバーヘッドカムシャフト(OHC)エンジンのアイデアを考案。エンジニアのフランツ・ハウク氏と彼のチームによって開発されたこのエンジンは、社内では「EA 827」と呼ばれ、フォルクスワーゲングループでもっとも幅広いモデルに搭載されるエンジンとなった。

「ヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤー」の受賞と好調なセールス

新世代のOHCエンジンをはじめとする数多くの技術的ハイライトにより、アウディ80はすぐに市場での成功を収めた。1978年夏の生産終了までに、100万台以上のB1世代モデルが工場からラインオフされた。インゴルシュタットの工場では生産が追い付かなくなったため、フォルクスワーゲンのウォルフスブルクとエムデンの各工場でも生産が行われた。

コンセプトカー「Asso di Picche(アッソ・デ・ピッケ)」

1973年には、ジョルジェット・ジウジアーロ氏がデザインし、コーチビルダーのカルマンが製造したクーペコンセプトカー「Asso di Picche(アッソ・デ・ピッケ)」が発表され、B1のスポーティなキャラクターの可能性を示した。1973年には高出力バージョンのアウディ80 GTが市販され、1975年10月には後継モデルのアウディ80 GTEが発表された。このモデルの最高出力は81kW(110ps)だった。この新しいトップモデルのドライビングパフォーマンスは、その後すぐにアウディの特徴となるダイナミックな走りを予感させるものだった。

1976年のマイナーチェンジで角型ヘッドライトを採用し、新世代のアウディ100とイメージ統一が図られた。軽量で燃費の良いアウディ80は、とくに1973年のオイルショック後に高い人気を博した。このクルマは、米国でもヒット作となり、Foxという名称で販売された。

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