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HRC(Honda Racing Corporation)は、1982年9月に設立された、ホンダのレース活動を担う会社である。HRCと聞くと「2輪のモータースポーツ」を思い浮かべる人も多いだろう。MotoGPをはじめとした活動で世界に名を轟かせてきた名門だ。
そのHRCにF1やスーパーGTをはじめとした四輪開発部門が加わり、2輪モータースポーツ部門と統一されたのが2022年4月。これでHRCは、文字通り「ホンダのモータースポーツ活動の中心」のポジションとなった。
今回、HRCの主に4輪部門の研究開発拠点『HRC Sakura』が、我々メディアに公開された。HRC Sakuraは、これまで秘匿中の秘匿で、ほとんど外部の人が立ち入ることができない世界だった。筆者はMotor Fan illustrated特別編集『F1のテクノロジー』『Motorsportのテクノロジー』シリーズの取材で何度がお邪魔したことはあったが、その時もエントランスと会議室までしか立ち入りは許されなかった。
今回は、なんとF1パワーユニット(PU)の製造組立、F1レースのオペレーションルームであるSMR(Sakura Mission Room)、ドライビングシミュレーター、そして風洞までもが公開されたのだ。驚きの大盤振る舞いである。
まずは風洞の様子からお届けしよう。
HRCさくら風洞
HRC Sakuraの通称『さくら風洞』は自動車用としては世界最大クラスの規模と設備を誇る。スケールは100パーセント。つまり実車でのテストが可能。さくら風洞が稼働したのは、2009年だ。主にレースカーの空力開発に使われているが、市販車の開発にも活用されている。NSXタイプSの空力開発は、このさくら風洞で行なわれたという。
ホンダには、さくら風洞のほかにも栃木研究所(四輪事業本部ものづくりセンター)にも風洞がある。
1991年稼働の「25%風洞」
2020年稼働の「100% 5ベルトローリングロード実車風洞」
だ。つまり、ホンダは国内に3つの風洞を持っているわけだ。幸運なことに、今回のさくら風洞取材で、ホンダの風洞3つすべてを見せていただいたことになる。
とにかく、風洞という実験設備は巨大である。25%風洞だって、ちょっとびっくりするくらいのサイズがある。となると、さくら風洞の「100%」ともなると、たまげるほどの大きさになる。
さくら風洞は(栃木研究所の風洞も)「回流式」の風洞だ。巨大な扇風機(ファン)で風を起こし、それがグルグル回る仕組みだ。作られた風(空気の流れ)は、4つのコーナーに設けられたベーンで制御され、向きを変え、ノズルと呼ばれる部分で縮流されて速度が上がり、計測されるクルマに向かって吹きつけられる。この風は精緻に作られたもので自然界には存在しない、方向の揃ったほぼ完璧な整流だ。
まずは、メインファンを見てみよう。
直径8m、カーボンファイバーでできた24枚のフィンが回転することで風を起こす。ファンは最高300prmで回転する。ちなみに、栃木の5ベルトローリングロード実車風洞のファンの直径は9mだ。
今度は、実車が置かれる測定室だ。
置かれていたのは、スーパーGTのNSX 2022年エアロパッケージのマシン。いわゆる開発車で各チームにデリバリーする前に空力テストをするマシンである。
ここで測るのは、空力開発で重要な「ドラッグ」と「ダウンフォース」だ。計測するロードセルは、クルマの真ん中のポストに仕込まれている。
風を流す前に、テアと呼ばれる、タイヤが出す転がり抵抗だけを計測する。このときは、ベルトだけを10km/h程度で動かして転がり抵抗を計算する。このテア(=TARE)は、家庭にあるキッチンスケールのスイッチにも書いてあるもので、要するに「風袋(ふうたい)」という意味らしい。あとから、このTARE分を除くと純粋な空力の数値が得られるというわけだ。
さくら風洞は1ベルト
さて、今度はベルトの話である。さくら風洞は、「1(シングル)ベルト」である。
上がさくら風洞、下が栃木研究所の5ベルト・ローリングロード実車風洞だ。
サクラ風洞の特徴は、このベルトにある。長手方向が9m、幅が3.2mのスチール製ベルトが風と同じ速度で回るのだ。スチールベルトはエアベアリングで浮いている格好だ。ちょうどエアホッケーのように。
1ベルトの場合は、車高(床面とボディ底部の間、ライドハイト)が低くここを流れる空気の影響が大きいレースカーの計測に優れている。
対する5ベルトは、4輪+ボディ底部の5つのベルトが動く構造だ。こちらは、レースカーほどライドハイトが重要でない量産車の空力開発に適している。床下のデバイスの空力評価がしやすいし、タイヤのホイールの形状違いも評価しやすいという。また。クルマの載せ換えも比較的容易で、開発効率が高い。
反対に、1ベルトはクルマの載せ下ろしが難しいという。
最高288km/h AWSとはなにか?
さくら風洞(栃木の5ベルト・ローリングロード実車風洞も)では、通常の形態で最高速200km/hでの計測が可能だ。通常の形態をオープンジェット(Open Jet)と呼ぶ。計測時間は約20秒間だという。
1ベルトが載っているターンテーブルは、最大10度回すことができる。これは、斜めに風が当たるヨー(Yaw)がついた状態での計測で使う。実際のコースでの走行ではヨー角は2~3度だというが、大ヨー角の場合は10度になる場合もあるそうだ(栃木研究所の5ベルト ローリングロード実車風洞のターンテーブルも回る)。
最高200km/hで計測できるということで、実際に200km/hの状況を見せてもらった。思ったほど音はうるさくなく、風の層流が当たる場所でないところで見ている分には、空気は見えないから、なんとも拍子抜けするほど穏やかだ。
市販車開発なら200km/hで充分だろうが、レーシングカーの世界ではそれでは足りないのではないか?
さくら風洞はオープンジェットとアダプティブ・ウォール・システム(AWS)を入れ替えて使える世界初の風洞だ。AWSとはなにか? これは、計測するクルマをアクリルの板で覆って、風の速度を上げる方法だ。流体には断面積を狭めれば狭めるほど速度が上げる性質がある。アクリル板で囲んで断面積を狭めて速度を上げていく。さくら風洞のAWSは最高速度288km/hまで計測できるという。
ちなみに、280km/h時にマシンにかかる荷重は約1.5トン。マシン自体の重さは約1トンだというから、自重の1.5倍の荷重がかかるわけだ。280km/hといえば、鈴鹿サーキットの130Rやストレートエンドでのスピードである。
実際にAWSを見ることができたが、撮影は許されなかった。さくら風洞のアクリル壁は、それ自身が少し変形する特徴がある。計測するクルマの周りは空気の流れが外側に広がろうとする。その流れを阻害しないように壁自体も少し外に膨らんだ形状に変化させるのだ。クルマの形状に合わせて、壁に動かす、だからアダプティブ・ウォール・システム。セグメント化されたアクリル板にはアクチュエーターがついていて、クルマの形状に合わせて数10センチ動かすことができる。最適値はアクリル板に付けられた圧力計で出す場合と、予めCFD(Computational Fluid Dynamics/流体力学)で形状を決める場合があるそうだ。
空力開発の競争は激しい。レースの世界はもちろんだが、市販車開発でもますます重要な要素になっていくだろう。空気抵抗を下げることは、レースカーの場合は最高速度に直結するし、BEV(電気自動車)なら、航続距離に影響する。
HRC Sakuraの1ベルト風洞の凄味は、極限の開発スピードが求められるレースの世界で常に回されていることにある。そこで得られたノウハウはサーキットでの勝利のみならず、今後生み出されるホンダ車、あるいはHRCブランドの”何か”に活かされるはずだ。