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チューナーのサイドストーリーを元に、人物像に迫る連載「チューナー伝説〜挑戦し続けてきた男達の横顔〜」。第5回目は、谷田部戦国時代を最前線で駆け抜けた関西屈指の名門ビルダー、トライアル・牧原道夫氏だ。
兄が経営するショップでチューニングの世界へ
上に兄が二人と姉一人、下には弟が一人。そんな5人兄弟の4番目として鹿児島で生まれ育った牧原さん。小さい頃から外を走り回り、折れてない骨はないくらいしょっちゅう骨折していたそうで、活発という言葉では足りないほど元気があり余っている子供だった。
「僕がチューニングの世界に入ったんは、二番目の兄貴が大阪の八尾でやってたチャレンジゆう店を手伝ったんがきっかけ。そこで、見よう見まねでパーツを付けたり交換したりしてたんやね。その後、チャレンジ二号店が河内長野にできて、僕はそっちに行くようになった。1975年のことやったかな」。
当時、若い子が乗るのはB10サニーや510ブルーバードという時代で、ちょうど“ソレ・タコ・デュアル”が流行りだした頃だった。始めはキャブにしても交換するだけだった牧原さんは、手探りながら作業を重ねるうちにセッティング方法を習得。チューニングの面白さと奥深さを知り、次第に大きな魅力を感じるようになっていった。
ところが、数年後、車高の低い違法改造車を作ったとしてチャレンジが摘発されてしまう。
「違法改造を理由に捕まった店は、たぶんチャレンジが初めてやなかったんかな。規制緩和で何でもありな今の時代には考えられんことやけど」。
営業停止処分などはなかったが、これを機にチャレンジは違法な改造から手を引くことになった。そこで牧原さんは、似たような意味を持つトライアルを店名として掲げて独立。それが1982年のことだった。
試行錯誤のキャブターボで最高速シーンの最前線に
1980年代前半、日本のチューニング業界は大きな変革期を迎えていた。未知数ながら大きな可能性を秘めたターボチューン時代の到来である。
牧原さんもチャレンジ時代に親しんだL型NAメカチューンでなく、トライアルではターボチューンに果敢に挑戦した。
「ターボゆうてもキャブターボな。当時、F1マシンもターボエンジンを載せとってブースト圧が4~5キロとか言うとった。本当にそんなに掛かるんかいなと思って、僕らは理屈がよう分かっとらんのにブーストを目一杯掛けるわけ。タービンの限界がどこにあるんかを確かめるテストやね。すると大体2.0キロちょっとで上がらんようになって。そりゃ怖かったけどな、壊れるかもしれんから」。
また、ブースト圧を掛ける分、圧縮比を落とす必要もあったが、どこまで低くすればいいのかが分からない。逆に、圧縮比が低すぎるとエンジンがかからなくなることも身をもって勉強したと牧原さんは笑う。
「やってみないと分からんやん。プラグって何番まで低くしたらエンジン掛かるんやろ、とかね。最高速をやりだしてから気になりだしたんは、ターボで圧縮された空気の流れ。6気筒だと1番と6番では流れ方が違うから、当然プラグの焼け方だって変わる。でも、その時は、なんでやろ? と不思議でたまらんかった。そこで、プラグをこっちは5番、こっちは9番と変えたり、1気筒ずつ番手を変えたりもした。その方がレスポンスが良かったり、吹け上がりが軽かったりしたんよ。ただ、理屈が分からずにそういうことをやっとった。知らないゆうことは無謀。だけど、面白いよね」。
ターボエンジンのノウハウを蓄積していくトライ&エラーは、まず1984年に実を結ぶ。S130Zでシングルターボ最速となる279.07km/hをマーク。さらに翌年、ツインターボ仕様のS130Zが307.95km/hを叩き出した。これは国産チューンド最速だったHKS M300を上回っただけでなく、光永パンテーラの記録も更新。トライアルが最高速日本一の金字塔を打ち立てたのだ。
趣味か、それとも仕事か? ショップを存続する難しさ
一部の例外はあるだろうが、チューニングショップはクルマ好き、改造好きが高じて始まったケースが大半のはず。もちろん、牧原さんがトライアルを立ち上げたのも同じ理由だが、40年に渡ってチューニングショップを続けてきた中で、深く考えさせられることもあった。
「チューニングって本来は趣味のもんであって、ビジネスじゃないよな。というか、ビジネスにしにくいビジネスやなと。自分自身で分析すると、僕なんかはビジネス的に成功した方じゃないと思う。趣味の部分が仕事になったわけで、趣味は趣味で置いとく方が絶対に楽しいと思うんよ。趣味が仕事になると、それを継続していかなくちゃということで、どうしても義務感とか辛さとかが出てくる。それと、自分一人の問題でもなくなってくるしな。そう考えると、チューニングをビジネスにするのはしんどいんよ」。
これは確かに難しい問題だし、それを仕事にしたことで趣味が嫌いになってしまったという本末転倒な話も耳にする。
でも、と牧原さんが続ける。
「ウチは節目で人に助けられて。まずはレイズの斯波さん。“ホイールを作れ”ゆうんで生まれたんがトライフォースゼルダ。それから10数年後、今度はレカロの佐藤さんに会い、ウチでもレカロを扱うようになった。ありがたいことにホイールもシートも売れてビジネスとしては良い結果が出せた。それがバックボーンになって、チューニングを仕事やビジネスと完全なイコールで考える必要がなくなったんよ。もちろん、儲けは出さなければならんけどな」。
自分一人では何もできなかったから、人には凄く恵まれていた。そんな牧原さんの言葉には実感がこもっていた。
創業者として考える世代交代のタイミング
自らが立ち上げたチューニングショップを今後どうしていくか。それは第一世代チューナーの多くが直面している現実で、牧原さんも例外ではない。
「昔は自分が先頭に立って引っ張っていかなならんかったけど、もし野球チームで9人おるんやったら、今は僕が四番打者である必要はない。それよりチームをまとめていくんが一番の仕事。スタッフが育っていけば、自然に会社としての幅、できることも拡がるからな。先々どうなるかは分からんけど、トライアルを存続させるためにいろんなことをやってくし、ここ2~3年で次の世代に継承するんが今の目標やね」。
プロフィール 牧原道夫(Michio Makihara) ショップ:TRIAL 出身地:鹿児島県志布志市出身 生年月日:1954年1月24日
●取材協力:トライアル 大阪府堺市美原区丹上87-1 TEL:072-362-7779
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