「14歳で上京、ロータリーの神様と呼ばれる男の素顔」RE雨宮・雨宮勇美【チューナー伝説】

チューナーのサイドストーリーを元に、人物像に迫る連載「チューナー伝説〜挑戦し続けてきた男達の横顔〜」。第三回目は、生涯現役を貫く“リビングレジェンド“RE雨宮・雨宮勇美氏だ。

ロータリーエンジン一筋60年

東名レースや青山ゼロヨン、そして湾岸。今や伝説と化した走りのステージを語る上で、“雨さん”の存在は欠かせないだろう。

泣く子も黙るトップチューナー“RE雨宮”の代表であり、常に走り続けることに情熱を燃やしてきた。スーパーGT選手権に出場していたRE雨宮レーシング代表でありながら「俺の原点はストリート」と言ってはばからないカリスマ的走り屋。もしかすると、伝説のステージに雨さんがいたのではなく、雨さんがいるところに本気の走り屋が集まって伝説になった…と表現する方が正しいかもしれない。

レース活動にも積極的だった雨さん。スーパーGT選手権では2006年にGT300クラスのシリーズチャンピオン(山野哲也/井入宏之)を獲得している。

「そんなたいそうなもんじゃないよ。どうカッコつけたって俺はしょせん暴走族だから、自分で走らなきゃ気が済まなかっただけ。しかも、この世界に入ったキッカケは貧乏脱出だからね。ここまでこれたのも運が良かっただけなんだよ、本当に」と、懐かしそうに過去を振り返る雨さん。

知られざるRE雨宮のルーツ、それは今から60年前、日本が高度経済成長期を迎えていた時代にまでさかのぼる。

貧乏を脱出するために中学生時代に上京

1967年5月、21歳の雨さん(右)だ。ウィークデーは銀座に出向き、並木通りでナンパしまくっていたらしい。

「俺ね、家がまずしかったからさ。中学を卒業後…あれ? 卒業したっけな? 忘れちゃった。上京して東京・羽田方面でロッカーや暖房関係の塗装業に就いたんだよ」。

14歳の時に通っていた中学校をバックレて、山梨から単身で東京へと上京した雨宮少年は、羽田で仕事をしながら、生活圏を江東区、東京の下町と定めて生活をはじめた。しかし、せっかく就いた職だったがあまりに過酷な労働条件だったため、友達3人を道連れにビル3階の窓から夜逃げを敢行。

その後は運送屋をやったり、プラプラしたり、鈑金屋に就職したり、悪の道に走ったり…。いつの間にか自他共に認める不良になっていたそうだ。「あの頃は若かったからさ。ツッパリに憧れてたんだよ」。

超シャコタン仕様のファミリアロータリークーペと二十歳ソコソコの雨さん。当時の月収は20万円だったそうだ。

といっても本職はあくまで塗装であり、ツッパリはほどなくやめて、クルマの塗装&鈑金に身を入れる。元々、嫌いではないため技術はメキメキと上達していったという。「給料は良かったよ。当時で20万円だったかんね」。ハンパではない、なにせ当時のサラリーマンの平均月収は2万円ソコソコだったのである。

狂走族時代

その後21歳にして独立、念願だった鈑金屋を立ち上げる。このあたりから仕事のかたわらストリートを走りはじめ、24歳の時に“影”という狂走チームを結成。都内全域を走りまくり、気がつけば雨さんは狂走族の中心的人物に。

1974年。30歳の時に江東区西葛西に『雨宮自動車』を設立し、チューンドロータリー製作を本格的にはじめる。雨宮チューンの幕開けである。

「あの頃は環8走って、その時の気分次第で第3京浜か東名のどっちかに乗るって感じだった。夜から朝方までとにかく走ってたよ。クルマもよくブッ壊したねー。それからしばらくして東名レースにハマったんだ。金は湯水のごとく使ったけど楽しかった!」。

自分で仕上げたチューンドロータリーを駆り、東名レースで圧倒的な強さを誇っていた雨さんの名声は、この頃から広まり出す。その相乗効果で鈑金屋も賑わう賑わうようになる。

この世界で雨宮ロータリーの名が一挙に高まったのは1978年のこと。雨さんが本腰を入れて組んだ13Bペリ仕様のファミリア508Aが、某自動車雑誌に取り上げられてからだ。このマシン、谷田部での0→400m加速を13秒弱で走破してしまったのである。当時としては異例な速さだ。若い走り屋のユーザーがひきも切らず、雨さんも大忙しの毎日となる。

1980年、江東区北砂に移転。その翌年に創刊まもないOPTION誌が取材に訪れ、RE雨宮の名はいよいよ全国区へと登りつめる。そして今に至る。

生涯現役をつらぬく男

RE雨宮チューンドのエンジンは全て雨さんが手がけている。「最近は一ヶ月に2〜3基って感じかな。エンジン組んでる時が一番集中できるし、気持ちも落ち着くんだよね」とのこと。

話は前後するが、雨さんの車歴というものをここで軽く紹介しよう。「最初に乗ったクルマは日産のパトロール。迷彩色に塗ってね。あれは多摩川で横転してオシャカになった。んで、キャロル360に660cc積んだヤツに乗ったんだ。3台目はオースチン・ヒーレーの3.0Lだったな。お洒落でしょ? エスロクやヨタハチも楽しかったねー。70万円かけてフルチューンしたチェリー・クーペなんてのもあったっけ」。

雨さんの車歴は凄まじい。他にもトランザムやコルベットなど様々なクルマを乗り継ぎ、サバンナRX3との出会いをキッカケにロータリーチューニングにハマったという。

雨さんの手は岩のようにゴツゴツしていて、指も一本一本が太く、所々に歴戦の証と言わんばかりの古傷も確認できる。60年近く、真摯にロータリーエンジンと向き合い続けた男の生き様が感じられる部分だ。

「若い頃は生活の全てをクルマにかけてたね。理由は簡単、スピード勝負で誰にも負けたくなかったから。みんなそうだったよ」。古いアルバムをめくりながらまもなく76歳を迎える雨さんが語る。続けて「今でも気持ちは変わってないよ。若いヤツに走りで負けたくないから。それにさ、やっぱチューニングって楽しいじゃん。後悔なんてしたことないよ、これが俺の生き方なんだもん」。

生涯現役。誰もが簡単に口にする言葉である。しかしその言葉が本当の意味で似合う人間は数少ない。雨さんはそんな数少ない中の一人だ。

プロフィール
雨宮勇美(Isami Amemiya)
ショップ:RE Amemiya
出身地:山梨県山梨市出身
生年月日:1946年3月3日

●取材協力:RE雨宮 千葉県富里市七栄439-10 TEL:0476-90-0007

【関連リンク】
RE雨宮
http://www.re-amemiya.co.jp/

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