「ゼッケン95、それは90歳を超えても走り続ける意思」スプーン・市嶋 樹

チューナーのサイドストーリーを元に、人物像に迫る連載「チューナー伝説〜挑戦し続けてきた男達の横顔〜」。第7回目はスプーン・市嶋 樹氏だ。

モータースポーツとの出会いが全ての始まり

プライベーターとしてレースに参戦していた若き日の市嶋さんの写真。トラックにレーシングカーを積んで、空気圧を見て、燃料はサーキットで入れると高いので近所のGSで入れて…と、レースで身を立てていこうと考えていたわけでもなく、ただひたすら速く走ることだけを考えていた。

「生まれは石川県の小松市。当時は市じゃなかったけど、小学校3年生になるまで水道もなければ電気もないような寒村でした。初めてエンジンが付いた乗り物に触れたのは5年生の頃かな。近所の大工のスーパーカブで、納屋の中にあったのを勝手に跨っていましたね」と、市嶋さんは少年期を振り返る。

「16歳になると軽自動車の免許を取って、N360で狂ったように走り込みましたね。そんな16歳の夏に、近所でジムカーナの大会があることを知って、出てみようと思ったわけです」。これが市嶋さんのモータースポーツの馴れ初めだと言う。

「自分には才能がある。そんな間違った認識がなかったら、レースの世界で生きていこうなんて思わなかったでしょうね」と、市嶋さんはレースにのめり込んでいく。そして、クルマをもっと速くしたいという欲求からチューニングに目覚めていった。

「中学を出てからはまともに学校なんて行かなかった。事実上の中卒。一般常識には欠けていたけど、その分クルマの整備には興味もあったし長けていたと思う。とにかく一心不乱、レースとクルマの事しか考えられなかったですね」というのが20代前半の市嶋さんだ。

鈴鹿に入り浸っていたことでホンダとの繋がりを持つ

「22~23歳の頃は、もっとメジャーなレースに出たいという欲求から、スカウトされるために、ずっと鈴鹿をウロチョロしていましたよ」と市嶋さん。プライベーターとして、FJ1600やFL500といったフォーミュラレースに参戦してキャリアを積み重ねていく。

そんな中で、鈴鹿にあったプライベーター向けの基地『RSC』に入り浸っていると、後に無限の専務になるホンダ技研の顔役に目を掛けてもらえるようになったそうだ。この事が、市嶋さんがホンダと強い繋がりを持つようになった経緯だ。

バイクショップの経営とサーキット設計の仕事も開始

ホンダのバックアップを得て、市嶋さんは30歳の頃に『モトランド』を創業。店舗は、現在のタイプワンから30mほどの距離にあった。

市嶋さんが30歳を迎えようとしていた頃、ホンダは国内にモーターサイクルショップの展開を画策していた。そこで、鈴鹿で馴染みもありバイクも大好きな市嶋さんに白羽の矢が立ち、支援を受けて東京の荻窪に『モトランド』という店舗を構えることになったのだ。

また、同時期、市嶋さんはサーキット設計のコンサルタントとしても活動。現在は岡山国際サーキットで知られるF1招致を前提としたコースは、市嶋さんが「敷地図のスケールに合わせて風呂場のチェーンでレイアウトした」ものなのだとか。

当初の名称であるTIサーキット英田の“TI”とは「オーナー会社“タナカインターナショナル”の略称ですが“タツル・イチシマ”のイニシャルを含めて提案したものです」とは、冗談のようで本当の話だ。

シビックの高性能に感動してスプーンを設立

スプーンを開業してしばらく経った1990年頃、車両はB16Aを搭載したEF9シビックだ。「ダブルウィッシュボーンも売りでしたが、VTECはホンダのコアなエンジニアリングとして、当時は大々的にプロモーションもされてましたよね」と市嶋さん。ちなみに、スプーンカラーと言われるブルーとイエローのカラーリングは、市嶋さんがイタリアで見た「空の青とミモザの黄色のコントラスト」を表現したものだ。

もちろん、この時代も市嶋さんの本質は4輪レーサーだ。1985年には、筑波サーキットで開催された9時間のナイター耐久に参戦。搭乗したのは、ホンダにとってS800から20年ぶりとなるDOHC水冷4気筒エンジンの『ZC』を搭載したE-AT型のシビック。その速さと強さは群を抜き、市嶋さんは日本初の市販車を使った耐久レースで優勝を飾った。

そんなシビックのポテンシャルに感動を覚えて、市嶋さんはレースカーとしてだけでなく、ロードカーとしても走りの魅力をさらに引き出すパーツ開発を開始。それがスプーン設立の原動力となる。

チューニングショップとして開業したのは1988年。シビックは前後にダブルウィッシュボーン式サスペンションを備えたEF型になり、1989年にはインテグラとともにVTECエンジンを搭載。1990年にはNSXが発売…と、ホンダ・チューニングベース最盛期の勢いは、そのままスプーンの追い風となっていった。

まだ世の中に存在しないパーツを生み出す発想力

VTECを可変させるためには5800rpmまで回さなければならず、街中ではなかなかそのフィール変化が体感できないとあって、開発したのがVTECコントローラー。ダイヤル操作で手軽にVTEC切り替えポイントが変更できるとあって大ヒット商品となった。

1988年秋、スプーンはVTECコントローラーを発売。街中では体感しにくいVTECの切り替えポイントを低い回転域に切り替えられるとあって、爆発的なヒットを飛ばした。また、NSX用チューニングパーツをいち早く揃えたことでも注目され、OPTION誌の最高速テストにも参戦するなど、スプーンの名は全国に拡まっていく。

さらに、純正形状カーボンボンネットやアルミ製ブレーキキャリパーをアフターパーツとして他に先駆けて展開。当時のN1耐久レースでは材料置換が認められず使用できなかったが、その軽さはストリートで効果絶大と大人気となった。

レギュレーションがあるレースに参戦しているからこそのアイディアもある。一方で、GDフィットに当初は設定のなかったマニュアルミッションを換装したり、EKシビックにK20Aを搭載したり…と、ルールが存在しないチューニングカー製作の中から生まれる発想もある。この両者を密接にリンクさせる発想力と技術力が、スプーンの強さなのかもしれない。

スプーンの創設者としてレーシングドライバーとして

2021年、市嶋さんはスプーンの代表を引退した。しかし「70歳になったからこそ気が付くこともある」と、豊富な知識と経験とともに、市嶋さんのバイタリティは次世代のスプーンにとっても強力な武器となる。

もちろん、レースへの情熱はまだまだ健在。スプーンのレーシングカーが背負うゼッケン“95”は、「最初は54番だったんですが、54歳が近づいた頃に90歳を過ぎても現役でいたいと思って、それから使い続けてるんですよ」とのこと。冗談のような口ぶりで話す市嶋さんだが、おそらくそれは本気のはずだ。

プロフィール
市嶋 樹(Tatsuru Ichishima)
ショップ:Spoon
出身地:石川県小松市
生年月日:1951年7月25日

●問い合わせ:スプーン TEL : 0120-112-095

【関連リンク】
スプーン
https://www.spoonsports.jp/

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