「ホンダ専門チューナーとしての意地と情熱」ジェイズレーシング・梅本淳一【チューナー伝説】

チューナーのサイドストーリーを元に、人物像に迫る連載「チューナー伝説〜挑戦し続けてきた男達の横顔〜」。第9回目は、ホンダ車専門の老舗チューニングショップ、ジェイズレーシング・梅本淳一氏だ。

走り屋にしてプライベーター、その延長線上でショップを設立

生まれは兵庫の西宮。商社に勤めていた父親の仕事の関係で幼少期はタイ・バンコクで過ごし、小学5年生の時に帰国してから大阪に住み始めた梅本さん。中学、高校と地元の学校に通い、16歳の時に原付で走り屋人生がスタートした。

「当時はノーヘルの時代。サニータウンで走っとってね。バイク命で、“一生クルマには乗れへん”と決めとったくらい好きやったけど、大きな事故をやって。22歳でクルマの免許を取ったんです。もちろん、クルマでも山を走ってましたよ」。

今でこそジェイズレーシングはホンダ専門店と認識されているが、立ち上げた頃はそうでなかった。梅本さんの車歴を振り返ると、ハチロク4台にFC3Sが6台、他にも80マークIIや70&80スープラ、BNR32にBCNR33…とバラエティに富んでいる。

「大学時代に立ち上げた人材派遣会社が大きくなって。野村證券の内定が決まってたけど、自分の会社に就職したんです。で、クルマをイジったり走ったりするんが面白かったんで、これは真剣にやってみようかと。それで1991年に始めたんがジェイズレーシングなんですよ。だから、僕はホンマにプライベーター上がり。ショップで修行したことはないし、メカをやってたこともない。ウチの前でパンタジャッキでクルマを上げとったくらいやから、自分らで工場つくってメカニックも育ててきたんですわ」。

梅本さんは並行して1993年からEF/EGシビックで鈴鹿フレッシュマントロフィーに参戦。1996年には鈴鹿クラブマンレースN1クラスのシリーズタイトルを獲得するなどホンダ車の魅力にも気付いてはいた。

しかし、初期のジェイズレーシングはホンダ車に限らず、トヨタ車でも日産車でも扱うチューニングショップだったのだ。

インテRでホンダを愛し、S2000で完全に火が点く

ホットバージョンの峠最強伝説で2008年にRE雨宮を破り、初めて魔王の座に就いたS2000の1号機。「ホワイトボディからきっちり作り込んで、レギュレーションに合わせてオーディオやエアコンも完備。もちろん、ちゃんと動きますし、ソフトトップも開閉できる。自分で言うのもなんやけど、あれは力作ですよ」と梅本さん。

ジェイズレーシングに大きな転換期がやってきたのは1995年。DC2初代インテグラタイプRの登場である。

「これは良いな、今までのホンダ車とは違うなと直感的に思って。それまでお客さんのクルマやとシルビアや180SXを中心に、トヨタ系も多かったんやけど、DC2が発売されたことで完全にホンダに切り替えたんです。ただ、今までウチに足を運んでくれてたお客さんにいきなり来るなと言うわけにはいかんから、それから10年くらいはホンダ車以外の面倒も見とったけどね」。

こうして徐々にホンダ車のイメージが強くなってきた頃、まさにタイミングを見計らったように発売されたのがAP1初代S2000。時に1999年のことだった。

「FRでVTECエンジンで6速MT。そんなの出たら、ホンダ好きが惚れないわけがない。ジェイズレーシングとしても、もし柱が4本あるとしたらそのうち3本はS2000というくらい力を入れたクルマやね。当時はパーツがよう売れたし今でも売れてる。S2000がなければジェイズはなかったと言っても大げさじゃない。それに続くK20を積んだDC5やEP3も良いクルマやったね」。

その後、GDからGKに至る歴代フィットのチューニングに注力。手軽に楽しめるクルマにして、GKフィットはセントラルサーキットで1.6Lクラスのタイムに匹敵する1分31~32秒台を出せるなど、すでにそのパフォーマンスの高さに気付いているチューニングユーザーも実は多かったりする。

人を鍛えて技術力を高めること、S耐参戦の理由はそこにある

居心地の良いショールームの一角にぎっしりと並べられたトロフィの数々。参戦するカテゴリーは変わっても、「ジェイズレーシングは常にレースと共にあった」ということを象徴するような光景だ。

1996年にDC2で鈴鹿クラブマンレースのシリーズチャンピオンとなり、1997年から2002年まではEK4で鈴鹿クラブマンと西日本のシビックワンメイクレースに参戦。ジェイズレーシングは梅本さん自らがステアリングを握り、2003年からスーパー耐久シリーズを戦うことになった。2020年まで参戦し、2006年にS2000でSTSクラスの、2014~2016年と2020年にはGK5フィットでST5クラスのシリーズチャンピオンを獲得するなど目覚ましい結果を残した。

「正直、レースに出たからといって宣伝効果になったり、ウチに来るお客さんが増えたりするとかはない。でも、レースがなかったら僕らもいけないと思っとるから、S耐にかかる年間数千万円は、まぁ必要な経費やなと。マシン作りにしてもN規定というのは大がかりなことができないから、チューナーの立場からするとタイムアタックしてる方が断然面白い。排気量上げたりミッション換えたり、自由に改造できるでしょ。それでもS耐に出続けたのは、レースが人を鍛え、技術力を磨くのに相応しい舞台だったからやね。一つ言えるんは、レースがなかったらジェイズはないし、ジェイズがなかったらレースもできないということ」。

また、2005年以降、梅本さんはセパン12時間やニュルブルクリンク24時間、ドバイ24時間を始めとした海外の耐久レースにも精力的に参戦。ニュルブルクリンクではクラス優勝、ドバイではクラス2位を果たすなど輝かしい戦績を収めている。

流行に惑わされず信じる道を突き進んできた

ジェイズレーシングは、ホンダ車であれば何でも扱ってきたというわけではない。例えば、ワゴンブームの時代に人気を集めたアコードワゴン。周りからは「ホンダ専門店なのに何故やらない?」という声がたくさん届いた。梅本さんが言う。

「理由はただ一つ。ジェイズレーシングというブランドを作るためですよ。その時もしアコードワゴンを扱ってたら、確かに商売的には儲かったかもしれない。でも、そこには手を出さなかったから、今のジェイズレーシングのイメージがあるのは間違いないでしょ。新しいブランドを立ち上げて認知してもらうのに10年。そこから本当に物が売れ出すようになるまで15年くらいかかるんやないかな。でも、なかなかそこまで続けられないんが現実。ショップの体力的にも、やってる人のテンションとしてもね」。

30年以上も筋を曲げなかったから今がある。自らを“かなりのめり込むタイプ”と分析する梅本さんだからこそ、脇目も振らず突き進んでこられたのは事実だろう。

今、力を入れているFK8シビックタイプR。後期型のデモカーは、エアロパーツ、XRステアリング、チタンシフトノブ、FX-PROエキゾーストチタン70RR、Black SeriesダンパーRR(FR18kg/mm)、キャンバージョイント、リヤコントロールアームなどジェイズレーシングのオリジナルパーツで武装している。

「最近よく考えるんは、ジェイズレーシングをちゃんとした形で今のスタッフ達に残していかなくちゃならないということ。これまで、ちょうど良い位置やったんやと思う。ホンダワークスの無限ではできないことを、俺らはできる立場にいたんやから。低くて、うるさくて、尖ったクルマを作れるという恵まれた環境で、そこにお客さんも付いてきてくれた。チューニングは基本グレーやし、どちらかと言うと悪いこと。だから、みんなの心に刺さることができた。ジェイズレーシングには、まだ尖ったところが残ってる。それがあるからお客さんも来てくれる。子育てが終わって、またこっちの世界にカムバックしてくる人らも多いんですよ」。

ブランドを確立させるには、あまりにも時間とコストが掛かるチューニングショップ。「こんなに効率の悪い商売、生まれ変わったら絶対にせぇへん。その時間と能力を他の世界にかけたら、10倍100倍のもんができとるんやないかな」と梅本さん。自嘲気味に話してはいるが、それでもクルマが、チューニングが、好きで好きでしょうがないというのが本音だったりするのである。

プロフィール
梅本淳一(Junichi Umemoto)
ショップ:J’S RACING
出身地:兵庫県西宮市
生年月日:1967年6月4日

PHOTO:伊藤吉行
取材協力:ジェイズレーシング 大阪府茨木市畑田町10-17 TEL:072-645-3500

【関連リンク】
ジェイズレーシング
https://www.jsracing.co.jp/

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