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地平線に向かってアクセルを踏み切れ!
毎年8月、アメリカはユタ州ソルトフラッツで開催される『ボンネビルスピードウィーク』。全米から、さらには海外からも参加者が集まってクラス毎に最高速を争う、もう70年以上も続いている伝統のイベントだ。1980年代末以降は日本のチューナー達もエントリー。その中で、ドライバーとして2度、チューナーとして4度の挑戦を果たしたダンディ田中に、ボンネビルの魅力を語ってもらった。
日本のミスターボンネビル DANDY田中独占手記
「ボンネビルでチャンピオンを獲ってチューナーとしての自信が持てたんだ」
最高速への挑戦は自分の技術力を証明できる唯一の場であり、特に1980年代は谷田部テストコース(高速周回路)で日本中のチューナーが競い合い、腕を磨いていった時代だった。自分で作ったクルマ、Z31(RB20改30のKKK F1タービンツイン仕様)が300km/hオーバーしたのも、ここ谷田部テストコースだった。
そんな時、テストドライバーをしてくれていたDaiちゃん(稲田大二郎氏)が言った。「谷田部のコースも、そろそろ速度の限界にきてる。それならボンネビルで全開にしたい」と。
そして1989年、Daiちゃんが乗るのはTBOのS130Z。そのクルマのお手伝いメカとして呼ばれたのが、自分とボンネビルとの最初の出会いだった。その時、沢山の参加車両を見て思ったんだ。「このレースは自分で作って自分で乗ったら、最高なんじゃないか?」って。そうすれば、自分の技術の証明にもなるし。魅力を感じている間もなく、翌1990年の参戦を心に決めていたよ。
参加車両はZ32フェアレディZ。結果は往復路の平均速度357km/hをマークして、“日本人初の世界記録チャンピオン”を獲得!! さらに、日本人初の『200マイルクラブ』メンバーにもなったんだ。
レース後の分解点検では、クルマはもちろん、エンジン内部もピカピカで傷ひとつなかった。これはノッキングやデトネーションが全く起きてないという証。自分のエンジン作りとセッティングに、初めて自信が湧いた瞬間だった。ただし、あのスピードで何回もトライするのだけは怖かったけどね。
その時から、自分でエンジンを組んでセッティングしたクルマはブローしなくなり、安定した速さを発揮するようになったんだ。これは、その後の人生において技術的にも人間的にも礎となったのは間違いない。
やはり、青春時代に読んだ漫画の一言に心を動かされた自分に間違いはなかった。
「何でも良い。一番になれ!!」
漫画の主人公の祖母が放った一言だ。つくづく思うよ、単純な男だなぁ~俺!!って。
1990年のレース初参戦から、翌年もZ32で参戦。FC3Sでは3度も出場した。その途中、NAのZ33でも挑戦した。
FC3Sで参戦した日本人女性初となる美由紀ドライバーはその数年後には我が妻となり、トロフィだけでなく妻もゲットしたのが幸せの頂点だったのかもしれないね(笑)。
思えば谷田部から始まった最高速。時には、「最高速なんて無駄だ!」と言うチューナーもいたけど、その度に「色々と文句を言う前に、ここに来て同じ土俵で勝負しなよ」と思ったもんだよ。この舞台には魔力があって、半端な作りやセッティングをしていると、必ず数kmでエンジンブローの憂き目に遭うんだ。ブローして、言い訳と共に去っていくか。それとも、悔しさから再び挑戦して自ら進歩していくか。そのチューナーの未来が分かる瞬間だよね。
そろそろまとめに入るけど、これだけは言える! 「最高速仕様というセッティングなど存在しない」って。最高速でブローしないクルマはサーキットでもゼロヨンでも通用する。
全国のチューナー諸兄よ。もう、言い訳は止めようよ。お客さんに笑われる前に…。