2001年は一つのターニングポイント。
1994年の5月にChrysler Corp.に入社以来、数々のコンセプトカーやプロダクションカーの開発に携わり、そして2001年のNAIASにプロダクション・バイパーをお披露目、更にこの後、コンセプトカーViper SRT-10をベースにレース専用車両の開発が始まり、気分はサーキットへと向いて、素晴らしい21世紀の幕開けが出来たと思っていた矢先、その年の9月11日に同時多発テロ”911”という大事件が起こり、穏やかな追い風は突然風向きを変え、強く長い逆風が米国社会全体を襲いました。
事件直後は現場との距離も有り、ミシガン州に位置する我々には大きな影響は有りませんでした。しかし、この事件が米国全体に与えた影響ははかり知れず、先ず国民の消費活動の緊縮が始まりました。人々が最初に買い控えたのが、一番高額な不動産、そして次が自動車でした。米国での車の販売台数はこのテロ事件以降、めっきりと減少しそれは自動車会社の経営に大きな影を落としました。 2002年と翌2003年の2年間で社内で様々な変化が有りました。私に近いところで起こったのは先ず、コンセプトカーViper GTS-Rをベースにしたレース車両の開発中止。
2002年から徐々に会社の経営状態が悪化して行くことが、内部に居るからこそよりリアルに見えました。2003年になると、デザインスタジオの中でも、先ず高齢のデザイナーやダイレクターが早期退職を促されて退職し、若年層もレイオフ(解雇)が言い渡されると言う噂が飛び交い、私自身も身の振り方について考えなければならない事態となりました。
捨てる神あれば拾う神あり
そんな私に「捨てる神あれば拾う神あり」と言う言葉どおり、チャンスが転がって来ました。911以降の不況の中でも NAIASは開催され、それに伴うデザイナーズナイトも開催されていました。年に一度、懐かしいデザイナー仲間と出会う機会であるデザイナーズナイトで、20年程前にACCDで同級生の一人であり当時Hyundai USAのデザイナーであったDragan Vukadinovic君が、Hyundaiはこれから米国市場を重視した開発をする予定でカリフォルニアに独自の大きなスタジオを作っていると言う情報をくれました。
勿論、転職先は一択では無く、数社に打診しましたが、このHyundaiの話が魅力的だったので、チャレンジしてみる事にして、2004年の夏にその新しく造られたカリフォルニアのスタジオに向かいました。そしていざ面接をしてくれたチーフデザイナーは、私がクライスラーデザイン時代の上司の一人, Gerry Piaskowski氏の息子さんで、Joel Piaskowskiさんでした。私自身も面識があったので、面接は極めて和やかに行われて即日オファーを頂き、私もここでデザインワークをして行こうと決めました。

Hyundai GENESIS Coupeの開発
そして、2004年9月からHyundai USAでの仕事が始まり、幾つかのフェイスリフトのプロジェクトを済ませた後、本格的な仕事がはじまりました。このHyundai Design North America (HDNA)は当時デザイナー:25人程(管理職を含む)の小規模組織で、私がかつて憧れたイタリアン・カロッツェリアの様な規模でした。そして、その一番の強味が、その才能あふれる20~30代の若手デザイナー達でした。
HDNAでの最初のプロジェクトは、ティブロンのモデルチェンジと言うよりも、この時代には珍しく後輪駆動の小型2ドアクーペの新型車 ”ジェネシス・クーペ”のデザインでした。そして、このプロジェクトで活躍したのは、Chrysler時代に幾つかのコンセプトカーをデザインし、あのViperでも私とプロジェクトを競作したEric Stoddard 君でした。彼は、その独自性を遺憾なく発揮し、個性的でスポーティーなクーペをデザインしました。



そして、その次に手掛けたプロジェクトが、2010年のラインオフが計画されていた2代目ツーソンSUVと6代目ソナタ4 Dr.セダンでした。
ツーソンプロジェクトは先代モデルからサイズ、パッケージングには大きな変化は無く、言わばスキンチェンジと言えるプロジェクトでした。Ericはここでも優れたデザインを提案し、フルサイズでは本社デザインチームと協力して素晴らしい成果を上げました。



Hyundai SONATA プロジェクト
そして、そのプロジェクトとほぼ同時期にラップしてスタートしたのがソナタ・プロジェクトでした。スタジオには2人の米国採用のエンジニアが居ましたが、プロジェクト毎に韓国の本社から2~3人のエンジニアが出張で応援にやって来ました。当時のHyundaiは社長の鶴の一声で、「エンジニアは極力デザイナーの要望を叶える様に!」との指示が出ていたお陰で、とてもデザイナーの仕事が進めやすい環境でした。
例えば、このソナタ・プロジェクトについても大まかな寸法は決められていたものの、私は過去の経験から4Dr.セダンをよりスタイリッシュに見せるために全高マイナス20mmを提案しました。単純に屋根だけを低くしたのでは居住性が悪化するので、私はフロアその物を-20mm下げる事を提案しました。それは決して簡単な事では無い事を私は経験から知っていましたが、その時本社から応援で来ていたエンジニア達は、本社の様々な部署と連絡を密にとり、遂には-20mmを可能にしてくれました。6代目ソナタの成功の影には彼らのサポートが在った事は決して忘れられません。

そして、このソナタのプロジェクトをデザイン面で成功に導いてくれたのがAndre Hudson君でした。実はこのプロジェクトに先のEric君も参加していました。

この時、同じ2010年発売予定のもう一つのプロジェクト:Tucsonがほぼ同じスケジュールで進んでいました。EricはそのTucsonにも良いアイデアを提案したので、この時、韓国に出張になりソナタの開発が続けられなくなっていました。そこで、そのソナタプロジェクトを引継ぎUSのスタジオでフルサイズの開発をしたのがAndre君でした。


私が当初に掲げたデザインコンセプト:スリークで伸びやかなスタイルテーマ、そしてそれまでのHyundaiの保守的なセダンのイメージを打ち破るデザインを見事に形にしてくれました。



この当時、Hyundaiにはデザインスタジオが、韓国本社、USスタジオ、欧州スタジオの3拠点が有り、プロジェクトによりその幾つかが参加しました。
通常USスタジオではスケッチ、→スケールモデルを開発し、韓国本社で参加スタジオのモデルを全て集めて合同で評価→2~3台のテーマを選出し、担当スタジオでフルサイズ化→5~6ヶ月後、完成したフルサイズを韓国に空輸して現地のサプライヤーで塗装&艤装して本社にて最終プレゼンという手順でデザイン作業が進められていました。重さ数トンもあるフルサイズクレイモデルを空輸する等、今では考えられない事かも知れません。
Hyundai Elantra 開発スタート
ソナタのフルモデルチェンジプロジェクトが終わると間もなく、小型セダン・エラントラのフルモデルチェンジプロジェクトが始まりました。私がクライスラーデザインで学んだ中で最も重要な事は、車のデザインは、先ずその車の印象は、プロポーションで8割以上が決まると言う事です。そこで、私は常に競合他車の情報を収集して、写真とディメンションの数値を比較しました。ちょうどこの頃このクラスの車として、2006年式のホンダ・シビックセダンが、市販化されました。そのプロポーションは、当時の小型セダンのどの車と比較しても斬新だったので、早速そのディメンションを調査してベンチマークとして、次世代エラントラのパッケージングを作り上げて行きました。ここでもHyundaiのエンジニア達は協力的で、素晴らしいパッケージングを作り上げてくれました。そして、そこからが我々デザイナーの出番。
ここでもHDNAのデザインスタッフの中に居たSedrick De Andre君が素晴らしい仕事をしました。後に2020年代に次々とリリースされたHyundai車両のデザインが、「Frewidic Sculpture (流体彫刻)」と呼ばれる様になるのですが、その称号を確立できたのはこのエラントラ・セダンではないかと考えています。


その後、HDNAのデザインは益々加速し、Hyundaiブランドだけでなく、新しい高級ブランドGenesisの開発も始まります。その話は、また次回。
