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チャンピオン1回という記録以上にファンの記憶に焼き付いている
2022年のMotoGPクラスのエントリーリストには「ガードナー」の名前がある。2021年にMoto2でチャンピオンを獲得してステップアップ、今年からテック3KTMファクトリー・レーシングから参戦しているレミー・ガードナーだ。
しかし、古くからの2輪ファンにとって「ガードナー」と聞いて真っ先に頭に浮かぶのは、レミーのお父さんの方だろう。ワイン・ガードナー。通算18勝、チャンピオン獲得数1回。素晴らしい成績だが、そうした数字以上に闘志あふれる走りでファンの記憶に残っているライダーである。
ワイン・ガードナーは、1959年10月11日、オーストラリア東南部に位置するサウスウェールズ州、ウロンゴンで生まれた。10代の頃からダートトラックで腕を磨いたガードナーは、17才でロードレースの世界に足を踏み入れる。
オーストラリア国内でメキメキと頭角を表し始めたガードナーに目をつけたのが、モリワキ・エンジニアリングの森脇護氏だ。ガードナーは1981年に鈴鹿8耐にモリワキから出場し、前年のポールポジションタイムを約3秒上回る驚異的なタイムをマーク。決勝はスタートで出遅れたもののトップを猛追。結局スプーンカーブで転倒してしまうのだが、日本のファンに鮮烈な印象を与えた。
1982年にはイギリス・ホンダと契約を交わして国内選手権を制覇。そして1983年にはついにWGP500ccクラスへのデビューを果たす。2戦スポット参戦したが、レース中に転倒したフランコ・ウンチーニを避けられずに激突するアクシデントもあり、この年は結果を残せなかった。しかしガードナーは翌年も5戦にスポット参戦して、ランキング7位を獲得。
1985年からはフル参戦を開始してランキング4位。1986年は開幕戦で初優勝を遂げ、シーズンでは3勝を挙げてランキング2位へと躍進。フル参戦2年目ながら、右手首の不調で戦線離脱したフレディ・スペンサーに変わってホンダのエースの座に就いた。
1987年は、オーストラリアから初の世界王者が誕生した年となった。ガードナーは15戦中7勝を達成して、最終戦を待たずしてチャンピオンを決定させた。ポールポジション10回、表彰台12回獲得と、速さと安定感を両立した文句なしの戴冠であった。
ディフェンディングチャンピオンとしてゼッケン1とともに臨んだ1988年は、マシンのトランクション不足という問題に悩まされた1年だった。4勝を挙げたものの、結局ローソンが三度目の王座を獲得した。
1989年は母国オーストラリアで行われた第2戦で優勝を果たすが、翌戦で転倒して左足を骨折。シーズンの序盤でチャンピオンシップ争いから脱落してしまった。この年以降、ガードナーは怪我との戦いが続くこととなる。
1990年はスペイン、オーストラリアで勝利を飾ったが、怪我にる5戦欠場が響きランキングは10位。1991年は未勝利となり、ホンダのエースは同郷のミック・ドゥーハンへ譲ることに。
1992年は第二の故郷ともいえるイギリスで、この年限りの引退を宣言。その後行われたレースで久しぶりの勝利を挙げるあたりが、千両役者のガードナーらしいところだ。
ガードナーは、日本ではミスター8耐としても知られている。1985年の1勝目は伝説だ。ケニー・ロバーツと平忠彦というドリームタッグを起用したヤマハがトップを快走するものの、残り30分でストップ。ガードナーは最後のピットインでスタンバイしていたペアライダーに交代することなく連続走行し、鈴鹿8耐を初制覇した。夏男のガードナーはその後も鈴鹿8耐の中心であり続け、1986年、1991年にも優勝。1992年には有終の美となる4回目の勝利を挙げて、鈴鹿の熱い夏から去ったのだった。
写真:磯部孝夫(いそべ・たかお)
1949年生まれ。山梨県出身。東京写真専門学校(現東京ビジュアルアーツ)を卒業後、アシスタントを経て独立。1978年から鈴鹿8耐、83年からWGPの撮影を開始。また、マン島TTレースには30年近く通い続けたほか、デイトナ200マイルレースも81年に初めて撮影して以来、幾度も足を運んでいる。