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Lagonda Rapide(1961-1964)
DB4をベースとした高級スポーツサルーンを
ラゴンダは1906年に創業、1935年にはM45Rラピードでル・マン24時間総合優勝を果たすなど、高級車、スポーツカーメーカーとして名を馳せたが、経営状況は思わしくなく1947年にデイヴィッド・ブラウンによって買収され、アストンマーティンと合併した。
その後も高級車ブランドとして独自に開発を続け、4輪独立懸架サスペンションを持つ新設計のシャシーに、W.O.ベントレー設計による直6エンジンを搭載した「2.6リッター」を1948年に、その5年後の1953年には排気量を拡大してボディデザインをモダナイズした「3リッター」と、相次いで大型サルーンをリリースしたものの販売は思わしくなく、1958年を最後にその生産を終了していた。
そこでブラウンはラゴンダブランドの再起を狙い、DB4をベースとしたベントレーS1フライングスパーのような高級スポーツサルーンの開発を指示。当初、ジョン・ワイア以下首脳陣はその方針に難色を示したというが、程なくハロルド・ビーチによって車体、そしてボディはカロッツェリア・トゥーリングによって開発が進められることとなった。
ビーチはここでバネ下重量の低減と乗り心地の向上を目的に、DB4で採用を提案するも却下されたド・ディオン・アクスルを持つリヤサスペンションを採用。4ドア化にあわせてスチール製のプラットフォーム・シャシーのホイールベースを16インチ(406mm)、トレッドを3.5インチ(89mm)拡大したほか、当時としては先進的なデュアルサーキット・サーボアシスト付きのディスクブレーキを4輪に装着するなど、後のモデルへと繋がる改良を施している。
戦前を代表するスポーツモデルの名を受け継ぐも
ボディはDB4同様トゥーリングが特許をもつスーパーレッジェーラ工法で構成され、DB4を踏襲した美しい4ドアボディが架装されるはずだった。ところが、彼らのデザイン案をもとにアストンマーティン社内のデザインチームが手直しを実施。リヤ周りにわずかながらオリジナルデザインを残すだけで、他は“チャイニーズアイ”と呼ばれた吊り目の4灯ヘッドライトや、馬蹄型ラジエターグリルなど押し出しの強いスタイルに“改悪”されてしまった。またボディ自体の製造もDB4とは違い、イタリアのトゥーリングの工房ではなく、イギリスのラゴンダの工房で行われることになった。
一方、DB4譲りの直6DOHCエンジンは1715kgに増加した車重に対応するため、排気量を3996ccへと拡大。その最高速度こそサルーンとしては驚異的な209km/hを記録したものの、2基のソレックスPH44ツインチョークキャブレターのレスポンスが悪いうえに、ほとんどのモデルにボルグワーナー製モデル8 3速トルコンATが搭載されたこともあり、望むようなパフォーマンスを得られなかった。
このように紆余曲折を経ながらも1961年のロンドン・モーターショーで発表に漕ぎつけたラゴンダ・ラピードは、その名こそ戦前期を代表するスポーツモデルを受け継いでいたが、優雅なDB4とは対照的なエクステリア、ウォルナットやレザーを駆使した豪華ながらも狭いインテリア、そして4950ポンドという高価格がネックになり販売は低迷。ごく少数ながら、3基のSUキャブを装着したスペシャルシリーズ・エンジンとデイヴィッド・ブラウン製の4速MTを搭載した高性能版が少数作られたものの、事態を好転することはできず、1964年までにわずか55台が作られただけで生産を終了している。
その後、幾度かラゴンダを名乗るプロトタイプが姿を見せたものの実現には至らず、市販モデルとしての復活は1974年まで待たなければならなかった。