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Lancia Delta Integrale 16V
1987年から急遽グループAがトップカテゴリーに
1986年シーズン、ポルトガルでのヨアキム・サントス、そしてツール・ド・コルスでのヘンリ・トイボネンによる悲劇的なアクシデントにより、モンスターマシンを生み出していたグループB規定は終焉の時を迎える。代わって、WRCのトップカテゴリーに導入されたのが、市販車をベースとするグループA規定だった。
急遽決まったこのグループAに向けて、ランチアが用意したのは、コンパクトハッチバックのデルタにパワフルな2.0リッターターボエンジンを搭載し、4輪を駆動する「デルタ HF 4WD」だった。
グループBでランチア最大のライバルだったプジョーは撤退を選び、アウディは大柄なボディを持つ「200 クワトロ」を投入。フォードはFRの「シエラ RSコスワース」と4WDの「シエラ XR 4×4」という2本立てだ。
一方、グループB時代からグループAで戦ってきたマツダとフォルクスワーゲンは、それぞれ1.6リッターターボエンジンを搭載するコンパクトな「323 4WD」、1.8リッター自然吸気エンジンの前輪駆動「ゴルフ GTi 16V」を持ち込んだ。
絶え間ない進化を続けたグループAデルタ
グループA初ラリーとなった1987年開幕戦モンテカルロで、デルタはライバルを圧倒する。ミキ・ビアジオンとユハ・カンクネンが圧巻の1-2フィニッシュ。ビアジオンは3位に入ったアウディ200 クワトロのバルター・ロールに4分もの大差をつけて見せた。この年、ランチアは9勝を挙げて、余裕のダブルタイトルを決めている。
結果的にランチアがデルタで採用した「2.0リッターターボ+4WD」という組み合わせは、グループAの最適解ということになった。その後、グループAを雛形とし、1997年から導入されたワールドラリーカー規定においても、この2.0リッターターボ+4WDという形式は引き継がれていくことになる。
敵なしの強さを見せつけたランチアだったが、シーズンごとにデルタを進化させる。1988年ポルトガルからは拡幅化された「デルタHF インテグラーレ」、1989年サンレモからはエンジンを16バルブ化した「デルタHF インテグラーレ 16V」、92年開幕戦モンテカルロからは最終進化形となる「デルタHF インテグラーレ(デルトーナ)」を投入。6シーズンで46勝を記録し、1987年から1992年まで6年連続WRCマニュファクチャラーズ選手権制覇を達成した。
デルタの牙城を崩した日本製ラリーカーたち
しかし、この2.0リッターターボ+4WDという最適解を採り入れた、三菱ギャランVR-4、トヨタ・セリカGT-Fourスバル・レガシィRSといった日本製ライバルが登場するようになると、ランチアは簡単には勝てなくなってしまう。
特にトヨタ・セリカGT-Four(ST165)は、カルロス・サインツのドライブで1990年と1992年にWRCドライバーズタイトルを獲得。グループAカテゴリーにおいて、初めてランチアと対等以上の戦いを繰り広げることになった。そして、1992年のサンレモでの勝利を最後にデルタは勝てなくなり、1993年シーズンをもってワークス活動にも終止符が打たれてしまう(1992年からはサテライトチームの「ジョリークラブ」がランチアのワークス活動を担当)。
フルビア、ストラトス、ラリー037、デルタS4と続いてきたランチアのラリー活動は、このグループA・デルタを持って幕を下ろすことになった。フィアット・グループにおける市販ベースのモータースポーツ活動も、アルファロメオによるツーリングカーレース参戦に引き継がれ、ランチアはグループ内における高級車ブランドへと転身を図る。
しかし、この2.0リッターターボ+4WDという最適解を採り入れた、三菱ギャランVR-4、トヨタ・セリカGT-Four、スバル・レガシィRSといった日本製ライバルが登場するようになると、ランチアは簡単には勝てなくなってしまう。
特にトヨタ・セリカGT-Fourは、カルロス・サインツのドライブで1990年(ST165)と1992年(ST185)にWRCドライバーズタイトルを獲得。グループAカテゴリーにおいて、初めてランチアと対等以上の戦いを繰り広げることになった。そして、1992年のサンレモでの勝利を最後にデルタは勝てなくなり、1993年シーズンをもってワークス活動にも終止符が打たれてしまう(1992年からはサテライトチームの「ジョリークラブ」がランチアのワークス活動を担当)。